切断と修復 「聴覚文化論」と関西の音楽人類学

表象〈09〉:音と聴取のアルケオロジー

表象〈09〉:音と聴取のアルケオロジー

巻頭の聴覚文化論をめぐる討論は、長くて内容が多岐にわたるので、まだほんの入り口のところしか読めていないが、

渡辺裕が「聴衆の誕生」の頃、前提にしていたのは音楽学プロパーの議論というより、70年代までの英米美学の制度論(アートワールド論など)だったと告白したあとで、

吉田寛が日本における聴覚文化論導入の経緯を彼なりの視点で振り返っている。

のだが、聴覚文化論が人類学から出てきた議論である、という割には、日本の人類学が制度的な音楽学を乗り越えて聴覚文化論的なものを探り当てつつあった動きが十分に押さえられていないように思う。

90年代初頭には、ニュー・ミュージコロジーはほとんど知られていませんでした、と言うのだが、私が阪大の大学院に入った1988〜89年頃、民族音楽学の古株の院生有志が Joseph Kerman の読書会を自主的にやってたよ(笑)。

民族音楽学ゼミで山口修や院生が言及した文献のことを考えても、中川真以来の卒業生たちの関心のあり方を考えても、山田陽一がスティーヴン・フェルドを訳したのは偶然の散発的な出来事ではなく、比較音楽学が音楽人類学を目指して、その過程で「厚い記述」や感性のエスノロジーというような問題領域を探りあてれば、ごく自然に聴覚文化論という構想にたどりつくだろうし、現にそういうことになっていたように思います。

そして山口修が(谷村晃の頑強な反対に遭いながら)渡辺裕を阪大に呼んだのは、彼なら関西で積み重ねられてきた、こうした取り組みを理解できる、話が合うはずだ、と判断したからだろう。

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今回の討議を読んで、どうやら、この1992年の人事は山口修の片想いに過ぎなかったらしい、ということがわかった。

(東大美学出身者が阪大の「水になじむ」のは、20年後の輪島先生の登場を待たねばならなかった。)

「制度論」から出発した渡辺裕は、人類学が再発見しつつあったように思われる「ある種の感性論」の萌芽をうまく理解できなかったし、だから、4年後に東大に戻ったときに、東大へそういうことをちゃんと伝えることができなかった。

大阪時代に見よう見まねでタカラヅカ研究に着手して、これで博士論文を書こうとした形跡があるのだが、この野望を東大美学の人々に納得させることはできず、それで、学位論文はベートーヴェンの演奏論ということになった。渡辺裕は、東大へ戻ったときに、関西での見聞をひとまず「封印した」のだと思います。

(離婚した出戻りさんに、周囲が根掘り葉掘りその経緯を聞くわけにはいきませんしね……。)

そして自分のところに院生として来た吉田寛の目には、「90年代にはニュー・ミュージコロジーはほとんど知られていなかった」という風に記憶されることになった。

どうやらそういうことであるようだ。

(なお、1990年頃のニュー・ミュージコロジーは、演奏の定量的分析と言ってもストップウォッチなので、現在から振り返れば自然科学との連携が決定的に立ち後れていたとは思うが、これは日本だけの話ではなくニコラス・クックだって似たようなものだ。吉田寛の研究史総括には、当時の日本の音楽学の「遅れ」を故意に強調する印象操作が施されている懸念がある。)

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[追記]

ともあれ、渡辺裕が2000年代に「聴覚文化論」に相当する概念を明確に打ち出すことができずに迂回したことは、当時の日銀のダメな対応と同じくらいの禍根を残したかもしれない。

渡辺本人は、学会での正面突破を避けてその種の議論を論壇的な売文、批判的な吟味がなされ得ない粗雑な放言の形でしか公表せず、学会の場には弟子たちを送り出した。そしてそのような「ロスジェネ/高学歴ワーキングプア」世代の若手は、堅固な理論的後ろ盾を欠いたまま、自力で状況を切り抜けるしかなかったように見える。

萌芽的な「聴覚文化論」が「ちょっと珍しい現象を扱う音楽学」にしか見えなかったのは、そんなもん、2000年代には若手によるゲリラ戦しかできなかったんだから、無理もないだろうという話ですよ。

そういう事態を引き起こした当事者とも言いうる渡辺裕を前にして、研究の「人材不足」と「倫理」(ネタに走りすぎた云々)という総括は、ちょっと「官僚的」すぎるのではないだろうか。

[追記おわり]

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でも、80年代の関西の音楽人類学は、そんな風にどこかの研究室の教授とその弟子の一存で消されてしまうようなものではないと思う。

とりあえず、フェルドの「鳥になった少年」は、西村朗を触発して鳥のヘテロフォニーの作品が生まれる程度には、同時代の感性を刺激していたじゃないですか。

サウンドスケープ論やサウンドアートも、80年代渋谷のアール・ヴィヴァンに通う高校生には鼻持ちならない「空疎なバブル」に見えたかも知れないけれど、奈良や京都や大阪で育った中川真や西村朗は、その向こうに「聴覚文化」の可能性を見いだし得たわけです。

そしてここへたどりつけた前提には、トヨタの「ジャパン・マネー」の助成を受けて、阪大美学の人類学班が、まるで往年の梅棹忠夫のように調査隊を組み、インドネシアや南太平洋へ出て行くプロジェクトがあった。

経済進出を背景に、潤沢な資金を得て現地を縦横に調査した巨石文化論の木村重信とか、パラオ研究の山口修とか、さらにその背後には梅棹忠夫の民族学博物館がそびえ立っているような関西の文化人類学の系譜を押さえておかないと、日本の「聴覚文化論」の土台を見誤るのではないだろうか。

(吉田寛を記号論学会へ引っ張りこんだ横浜国大の室井先生は、そんな関西の美学・芸術学会の暴れん坊だったわけですし、長門淳平の「映画音響論」だって、梅原猛が中曽根康弘に作ってもらった日文研に細川周平がいたから書けたようなものなのでしょう。

80年代の日本経済がもたらしたものを「儚い泡」と矮小化して、自分たちがそことは切れている、と主張するのは、俗情と結託する歴史の歪曲かもしれない。

「批評空間」の柄谷行人が大正教養主義を「切断」する身振りで90年代=失われ20年は幕を開けたが、その頃から居座っている先生方がご執筆なさっている表象文化論の雑誌に新風を吹き込むことができるとしたら、それは、もはや自分で自分を傷つける自傷行為にしかみえない「切断」の反復ではなく、「修復」の身振りを導入することによって、なのではないか。

「日本は貧しい」とか「人材が乏しい」とか言うが、まだ十分に使えるものを中古品扱いして「切断」して捨て去るようでは、経済・家計の辻褄が合うはずがない(笑)。)

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そして最後に、余談だが、80年代を歴史として再考するためのヒントになるかもしれないことを一つ言い添えておきたい。

渡辺裕は、英米美学の制度論の出現で芸術のカノンが崩壊したことに衝撃を受けて、「敗戦のような思いを味わった」と回想するが、山田陽一やト田隆嗣はニューギニアやボルネオのフィールドで、地上に残された最後の秘境を「探検」した。これは南洋の戦場を追体験するような行為だったかもしれないと気がついた。

日本の経済進出は先の戦争のリベンジであるかのように言われるが、その恩恵が日本の人文学者に戦争を追体験させたわけだ。

80年代というと、東京の人は「セゾン文化」を思い浮かべるかもしれないが、東南アジアに進出した財界製造業系の人たちであるとか、大阪から東京へ進出したサントリーは、必ずしも敗戦の記憶が風化した先に出現した「表層と戯れる軽やかな都市文化」を志向してはいなかったのかもしれない。

東大美学が「南洋」を忘却しても天皇皇后はパラオをずっと気にかけていたことが先の訪問で明らかになったが、80年代の日本企業の重役たちは、みんな戦争を体験した世代だ。