共同討議「聴覚性の過去と現在」(『表象 09』)

ひとまず、メモを取りながら通読した。

「音楽」学が、民族音楽学or音楽人類学やポピュラー音楽研究の充実を経て、対象領域を音楽 music から拡張する動きが20世紀からずっとあって、musics (複数形)とか musiking (動詞化)とかのダジャレ的微調整案から、サウンド・音響概念の導入、ライブと音盤、複製技術への注目などなど、どんどん拡散した末に、これはいっそ、扱う領域を「聴覚」全般に広げちゃえ、というのが「聴覚文化論」なのだと思う。

グローバリズムに忠実というか、なんというか、でっかい国に対抗するには、考えることも荒っぽくでかくなければいかんのでしょうか(笑)。

で、そこまで領域を広げたことでどういうトピックが浮上して、どういう理論上・方法上の問題が今話題になっているのか。ひととおりフォローしてあると思うし、キーワードや参考文献を紹介する脚注も充実している。

そしてとりわけ、「そのトピックを扱うときには、こういうところにトラップがあるから要注意」的なコメントが、主に吉田寛先生から的確に挿入されるので、現時点での「聴覚文化論」入門として、よくできているんだろうと思う。

(ゼロ年代風な語彙だと「プラットフォーム的」と言うのでしょうか。)

それぞれのトピックについて、読みながら思うことは色々あって、それをメモしながら読み進めたわけだが、これは、この「共同討議」への感想として書くよりも、参照されている文献なりを検討した上で個別に考えていくほうが生産的だろうと思った。

(プラットフォーム=人が混み合う「駅」という場所は、じっくり話をするには向いていない。それ自体を吟味するというより、上手に「利用」したいテクストだ。)

あと、吉田先生は、コメンテイターとして八面六臂の大活躍ではあるけれど、基本的には、「聴覚文化論」という新しい領域もしくはプラットフォームの管理監督責任者を買って出たわけじゃなく、ご本人の関心のベクトルは、当面「文化」より「聴覚」(とは何か?)の方を向いているんだと思う。

これも、別途そういう方面でまとまった仕事がなされるのだろうから、それを待ちたい。

      • -

ただ、ひとつだけ思いついたことがあるので、暫定的にメモしておく。

「認知科学推し」であるところの吉田先生が、マッハからギブソンへ、ということで自然科学と文化の「間」に立てようとしている「感性論」を、スターン(audiovidual litany)とデリダの掛け合わせとして見えてくる風景(「視覚優位という見かけを取り払った剥き出しの西欧」)のど真ん中に据える演出は見事だなあと思う。実に見栄えの良いプランです。

「聴覚性」とは何か、探究していただければいいと思うです。

でも、「聴覚文化論」ということで大幅に拡張された対象領域をカヴァーする基礎理論のほうは、知覚・認知のもうひとつ先の「科学的実在」の層へ届いたほうがいいんじゃないだろうか。

      • -

視覚性の理論に匹敵する聴覚性の理論を作ろうとするのは、どうやら筋が悪いらしい。

でも、光と振動という層まで降りたら、両者の関係は物理の格好のトピックですよね。

自然現象としては通底している光と振動を、人間という生物が瞳(視覚)と耳(聴覚)と皮膚(触覚)などなどに分けて感知しているに過ぎないかもしれないですよね。

もはや「文化」ではないかもしれないけれど、必要なのは、聴覚性の向こうに垣間見える「振動」論なのではないか。

「聴覚性」で推していく議論が後半で失速気味になるのを読んでいると、パンデクテン法学風に「法理」を立てようとしていたはずなのに、いつの間にか、institutional な話題へ流れている印象を受けた。光と振動の法体系の相から見ると、視覚と聴覚なるものは、人間という地上の一介の生物の「制度」に過ぎぬ、と言えてしまいそうな気がしたのです。

もちろん、神ならぬ身には、かように高邁な法体系よりも、今ここにある「制度」としての視覚と聴覚にこだわる切実な動機があり、それでこそ「近代人」だと思いますが。

参考:「制度」考