「表象文化論」という言葉は、なんとなく東京ならではのような気がするのだけれど、そういえば、「表象(ひょーしょー)」と「東京(とーきょー)」は語呂がよく似ている。どちらも母音は「お」しか出て来ないし……。
だからどう、ということではないが、そういえば、「東京(とーきょー)」という地名自体が明治までなかったんですよね。
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江戸のお城のお侍さんたちの支配は長らく「ご公儀」であって、「幕府」(帝から政権担当者に任命された意味合いが強くなる)とは呼ばれていなかったと渡辺浩先生(←「裕」にあらず)は書いているが、「表象文化論」とかそういうのは「ご公務」なのかな?
少なくとも、上野の音楽学校で営まれている事柄には、今もなんとなく、「式楽」の「ご公務」感があるような気がするけれど……。
そして東京藝大もまた、「ドイツ離れ」のパリ志向であり、理論と聴覚の統合だったりするわけだが。
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参考:ドイツ的「直観」のここが嫌い!(笑)
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話をまとめよう。
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特集冒頭の討議への感想はこちら。 → http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20150420/p1
(関連して、この討議も無意識にそこへ引きずられがちになっていると思われる「制度 institution」についての考察はこちら。
- http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20150408/p1
- http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20150408/p3
- http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20150409/p1
「この世で正義を行う」と標榜する制度設計が、なぜ失敗するのか。この種の討議が「よくある質問 FAQ」に順番に答えようとしてグダグダになっていく(=「天に変わって諸悪を成敗」のヒーローの殺陣は、熱演だが読んでいるとやや飽きる)のを見るにつけ、先端研究の要約 pandectae と、制度・手引き instituones の区別を一度どこかでちゃんと考えたほうがいいと思う。)
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『表象09』の最初のほうで渡辺裕(←こっちは「裕」)が語った「敗戦のような経験」は、西欧芸術論の巨艦主義が英米美学による空爆で焦土と化した、というイメージだと思う。ニューレフトも批判理論もそのままではダメっぽい。だから「不戦の決意」で彼は批評をしないわけだ。
「私たちはアナタの臆病な妄想に何十年も振り回されていたと言うのか!」と呆れるしかない話だが、ちょっと立派な学歴と肩書きのある人が目新しいことを言うと、なんとなくまかり通ってしまう、そんな風に知的水準の低い浮かれた時代だったということである。
そうして「ちょっと珍しい音楽学」と言われようとも聴覚文化論で行く、あるいはもっと軽やかにオシャレ志向の人は表象文化論をやる、ということだと思うのだけれど、言葉の端々に保守論壇っぽい語彙(「進歩史観」とか)が出てきてしまうのは、「浮かれた小心者文化」の土台に開発主義があったからだと思う。
参考:http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20150419/p2
ゲーム業界では研究者と開発者が近いとも伝え聞くが、それはおそらく、「ビデオゲームは開発者の文化」、ということでもあるように思う。
デベロッパが切り開いた領域だからこそ「近代を超克」できたかのような表象(ポストモダンですか?)が花開くわけで、その成否・進捗具合は、どうしても「開発」の事業規模に依存する。
参考:http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20150423/p1
視覚・映像は絶好調だが、聴覚文化は、実はあまり「旨味がない」。だから人も集まらないし、組織的な役割分担も思うようには進まない。
新規開発された領域(いわば「新開地」)に優秀な人材を投入して、技術の平和利用で議論を凝縮・加速・洗練させる、というような「知の開発モデル」に乗るか乗らないかは個人の自由だが、本当にこの形しかないのかなあ、まだやるのかなあ、というのが、外から見た「知の千代田城」=「とーきょー/ひょーしょー」の景色であると言えるように思います。
(1回目(1940年)の東京オリンピックは開戦で中止返上、2回目(1964年)は高度成長のシンボルになったが、3回目は「普通の国」として普通にやれるといいねえ。)
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「超越論的/形而上学的」に飛翔・空中浮遊するか、「横断的/世俗的」に生きるか、垂直か水平か、というと懐かしい柄谷行人みたいになってしまうけれど、「表象」のエクスタシーの隣には、散文的な「比較」という方法もある、と若いエリートが知っておいてくれたほうが、東アジアの島民土民には、生きやすい社会になりそうな気がする。
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ワーグナー/聴覚文化論/ゲーム研究というように、凡人なら飲み込まれて生還できなさそうな魔界に次々足を踏み入れて平気な吉田寛先生のような人は、何十年にひとりしか出て来ない超人なのであって、他人の手本にはなりそうにない(笑)。普通の秀才は、色々なことにバランスよく目配りできたほうがいい。
そんなことを言っても、地を這う阪大生の卑しい根性と無視されるかもしれないが(笑)。