「声の影」

ダールハウスは、19世紀以後の「絶対音楽」との対比で、「かつて器楽は声楽の影であった」という言い方を好んで使った。

声・言葉を不可欠の要素としてもっている声楽が十全な音楽で、肝心の声・言葉を欠いた器楽は、音楽の姿形を地上に投影した平べったく灰色の影のようなものだ

というイメージで理解していたのだが、「影」という言い方は、もっと色々な連想をここから引き出していいのかもしれない。

本体が動くにつれて「影」が動くように、ルネサンスからバロック、古典派と声の芸術(宗教音楽や劇音楽)の様式が変化するにつれて、器楽の様式が変化している、と言える面があるかもしれない。

ガブリエリの金管合奏のポリフォニー、コレッリのトリオ・ソナタのモノディ、モーツァルトのコンチェルトの器楽アリア……というように。

そして地上の「影」は、角度によって実体よりも遠くまで長く伸びることもあるし、短いこともある。輪郭がくっきりしていることもあるし、ぼやけて、うっすらとあたりに広がっていることもある。

声楽から器楽への影響のうち、「主題展開と絶対音楽の時代」まで長く続いたものもあって、たとえば「声」を意識することなくカンタービレを書く/弾くことができると考えるような無謀な音楽家は19世紀にはおそらく(まだ?)いない。でも他方で、「音楽の散文」は、モノディ/レチタティーヴォの物真似(「第九」の O Freunde, nicht diese Töne!)とは違う実装を開発して表現主義を準備する。

いずれにせよ、19世紀の前半あたりまでは、まだまだ、器楽にかなり濃く「声の影」が射していると思う。

器楽という「影」(の楽譜や録音)だけと向き合って、なんでここがこんな風になっているのだろう、と呻吟するのは、入り口に背を向けてイドラを眺めるプラトンの洞窟のようなことになりかねない。

チャールズ・ローゼンは、ソナタ形式とか古典派様式、ロマン派様式といった「特殊器楽的」な問題に取り組んで来た人だからこそ、そういう視点では取り扱うことのできない「音楽と感情」を別立てで論じることにしたんじゃないかなあと思う。

近代の西洋音楽は(近代の西洋音楽も?)、「声の影」に気付いてやっと一人前、のような気がするんだよね。

劇場・劇音楽とは何だったのか、representation の問題(表象文化っすか?)として論じるとしたら、このあたりがひとつの焦点になるんだろうけれど、だとしたらなるほど、声と楽器の違いに、「魂が宿る/宿らない」の区別が重なっていることになりそうですねえ。

フッサール/デリダ問題ですなあ。

「西洋哲学は自分の声を聞く」じゃないけれど、楽器奏者が「自分の音を聞く」というフィードバック回路を装填しないで音を出すと、その結果はどんなに正確でも「死んだ演奏」に聞こえますからねえ。