承前:ヴォーカロイドは自分の声を聞かない

で、上のエントリーの続きになるが、ヴォーカロイドさんは、ニューメディアが築き上げてきた「主体なき声」の到達点である、という風な議論をかぶせることでゼロ年代の歌姫として盛り上がったわけだが、

「彼女」(なぜか若い女性の声ばかりが受ける)は、自分の声を聞いてないよね。

その意味で、「影」の解像度を飛躍的に高める技術が開発された(第三者が「聞く」かぎりでは本体との違いがほとんどわからないほどである)とは言えても、「魂」は宿っていないんじゃないか。

自分の声を聞くフィードバック回路が装填されていないことによる「言いっ放し」感があるのは否めないですよね。

そしてこの「言いっ放し」感を肯定する議論は、「他者」とは「私」が制御できない存在のことである、という仮説に支えられているわけだが、そのような議論における「私」は、一方的に「聞く人」と規定されてしまっているのではないか。そして「私」を「聞く人」と規定する根拠を「聴覚の受動性」に求めてしまうと、それは一種のトートロジーではないだろうか。

つまり、「聴取の詩学」みたいな20世紀末から21世紀初頭のメディア環境に特有の前提があって、その磁場のなかで生まれた技術を同じ磁場にどっぷり浸かった議論で擁護しても、お手盛りに過ぎないのではないだろうか。

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リアルワールドで、自分の声を聞くことなく「言いっ放し」な存在が目の前に現れたら、死ぬほどウザイ(笑)。

しかも、そのような「言いっ放し」の極めて特殊なウザイ他者を、「彼女」=女性として表象するのは、全然新しいことではない。

「女性は放埒である」

という相当に古くさく、保守的で、フェミニズム的に問題の多い観念連合が、ヴォーカロイド礼賛の背後にあるんじゃないか。

むしろ、今この場で自分の声がどのような状態で響いているか、その響き方が自分にとって好ましいorふさわしいのか、ということをフィードバックする回路を装填するのは、ハードとソフトの両面で技術的に挑戦する価値のあることかもしれないと思うし、世間にかなりの勢いで広まっている人工的な合成音響や拡声器のたぐいが、そのようなフィードバック回路を装填するようになれば、公共スペースでしばしば「騒音」として文句を言われている現象に、新しい展開が開けるのではないだろうか?

現状のヴォーカロイドさんは、人間がこと細かに設定を調整しないと満足のいく振る舞いで「文明化」した声を発してくれないわけで、なんだか、わがまま放題に育てられたバカの子みたいじゃないですか。それで君たちは満足なのか(笑)。

ヴォーカロイドに人間様(ほぼ男性)が振り回される姿は、なんだか、谷崎の「痴人の愛」や「春琴抄」のマゾヒズムの劣化コピーのような気がします。

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