万博・お芸い・都構想:MBSと「千里・北摂的」なもの

テレビドラマ(アメリカ英語:television drama、television drama series、TV drama、 イギリス英語:dramatic programming)とは、テレビ番組の一種で、ドラマ形式のもののこと。

テレビドラマ - Wikipedia

現在作業中の案件に関連してふと気になったのでメモしておく。

日本語では、ここにあるように「テレビ番組のうちドラマ形式のもの」を「テレビドラマ」と呼ぶが、これは、どうやら和製英語であるらしい。

ウィキペディアを信じるならば、米語 television drama や英語 dramatic programing とは、言葉遣いの上でもジャンルの内実の点でも対応していないようなので、ペダンティックに「テレビ・ドラマ」と区切って表記しても意味がなさそうだ。

どうしても米語との対応関係を保ちたければ「テレヴィジョン・ドラマ」、日本での現状を語りたいのであれば、一語で続けて「テレビドラマ」と表記する。このどちらかにするのが筋がよさそうだ。

英語では「drama」と言う語が映画とテレビのジャンルとして使われるとコメディと対立し、冗談が入っていないシリアスなストーリーを指す。英語では「situation comedy」(シチュエーションコメディー)は「drama」と別なジャンルである。それに対して、日本語ではドラマはコメディドラマを含む。英語では「comedy drama」は笑いもシリアスな話もあるストーリーで、その二つの様子を合わせたもの。英語の「situation comedy」(シチュエーションコメディー)は笑いのあるストーリーで、日本語のコメディドラマに近い意味がある。

テレビドラマ - Wikipedia

ここではシットコムとドラマの違いが強調されているが、日本の時代劇や大河ドラマを視野に入れると、史劇 historical play との関係もややこしそうだ。

日本の歴史上の題材を扱ったものは時代劇と呼ばれることが多い。時代小説と歴史小説の区別がそうであるように、時代劇よりも史実に近いものを「歴史劇」(史劇)と呼ぶことも考えられるが、実際には日本以外のものを「歴史劇」、日本国内のものを「時代劇」と呼び分けていることが少なくない。

歴史劇 - Wikipedia

という見方もできそうで、なかなかややこしい。

テレビドラマは小説等を原作にすることが多いので、歴史小説と時代小説の違いなどを踏まえざるを得ないだろうし……。

どうしてこういうことを気にし始めたかというと、

毎日放送が昭和41(1966)年に開局15周年で福田恆存の監修による「怒濤日本史」という連続ドラマを制作したわけです。

その前には武満徹が音楽を担当した源氏物語があり、2年後の昭和43(1968)年=明治100年には、福田恆存が明治以後の文学作品を選んでドラマ化した「テレビ文学館」というシリーズが制作された。

「怒濤日本史」と「テレビ文学館」の両方に大栗裕が音楽で絡んでおりまして(ちなみに大栗裕は毎日放送開局10周年記念のラジオ・ミュージカルも作曲している)、

[補足メモ:大栗裕がMBSで大きな仕事をさせてもらえたのは、同局で彼を高く買っているプロデューサーがいたせいであるらしい。詳細はいつか調べる]

千里丘に移転した放送局と福田恆存がどこでつながるのか、そもそも、よくわからないし、MBSはどこへ向かおうとしていたのか、気になるプロジェクトなのです。

フジテレビがお台場に移転したり、大阪では、平成に入ってMBSが今度は梅田茶屋町に移転して周辺の大規模な再開発に一枚噛んだり、ABCは福島の社屋にホテルやテレビ塔を併設して地域開発の中心になり、シンフォニーホールはその副産物なわけだが、そのあと社屋が中之島寄りに移転して、今は環状線福島駅の南側のほうが栄えた感じになっている。

放送局の場所(の移動)は、常に「開発」絡みのようだ。

放送局が史劇を作りたがるのは、「一国一城の主」とか「下克上」とか、ざっくりいって戦国大名的なものを好む体質があるんじゃないか。

そして在阪各局のなかで、1960年代にもっとも露骨に大作主義、モニュメントの「築城」に走ったのは、千里丘陵という広大な「領地」を得た毎日放送だった、ということなのかもしれない。現在のMBSからは想像できないかもしれないけれど、あの頃はイケイケだったようなのです。

(大阪の放送局としての朝日には、メディアの巨人感はあまりないんだよね。朝日放送のラジオは朝日会館のワンフロアで急ごしらえでスタートしているし、テレビ放送は大阪テレビ OTV のスタッフ(のうち毎日放送へ行かなかった人たち)を引き継いで、番組は当時のキー局のTBSが大きいものをやって、ABCのスタンスは、今もそうだけれど、あくまで地域密着な感じがある。藤田まことの「てなもんや三度笠」とか、「新婚さんいらっしゃい」とか、「探偵ナイトスクープ」とか……。

本家朝日新聞社は、肥後橋の巨大ホールで国際音楽祭を開催して、既にライヴァル毎日新聞社を抜き去った感じだけれど、放送事業としては、ネットワーク・キー局TBSにいいところを持っていかれがちなABCよりも、後発でしかもキー局NETが非力だったMBSのほうが、むしろ天下を取るぞ、という勢いで暴れる余地がたっぷりあったのかもしれない。ラジオの新日本放送も、立ち上げの頃、小谷正一が色々と仕掛けたことで知られているし……。

無理難題「プロデュース」します――小谷正一伝説

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残念ながら現在まで語り継がれるような番組はあまりないけれど、高度成長が一段落して、ABC←→NET/テレビ朝日(朝日新聞系列)、MBS←→TBS(毎日新聞系列)とネットワークが再編された1970年代以後に、「ヤングタウン」の桂三枝とか、「ヤングOh!Oh!」の明石家さんまとか、「突然ガバチョ!」の笑福亭鶴瓶とか、「4時ですよーだ」のダウンタウンとか、MBSのラジオやテレビで注目された若手芸人さんが東京へ進出する登竜門っぽい役割を果たしたのは、この放送局と千里丘陵のかつての「天下取りの野心」の名残なのかもしれない。

旧来の「大阪」とは違うタイプの「中間層」が成長するにつれて、お笑いの若手さんが成長して全国区の人気を得ていくのは、60年代のギラギラした開発・急成長への対案として、同時代的には好ましいものに見えていた気がするし、別にそれ自体を非難するいわれはないと思うけれど、

でもそうこうするうちに、橋本徹くんが、文化伝承者たちに「吉本を見習え」と言うに至って、それは無茶や、と思わざるを得なくなった。

要するに、彼は「下克上システム」を全面化せよ、既に大阪で長い歴史の末に現在の安定を得ている人たちに、もう一回ゼロからやり直せ、と放言しているに等しいわけだから、あの発言は、「大衆化/ポピュリズム」ではなく、大阪全土の北摂化、「北摂主義」なのだと思う。彼は、吉本方式のお笑いを支え、自らを(すくなくともあの発言の時点では)支持していたのが、「大衆」というよりサラリーマン中間層、テレビのお笑いが好きで、番組観覧希望の葉書くらいは出すかもしれないが、お金を払って寄席や大衆劇場に行くことがないような(←「北摂」の人間は数年に一度くらいしかミナミには行きません)、そんな教育熱心でやや偽善的なホワイトカラーとその家族であることをわかってああいうことを言ったのでしょう。)

テレビ的教養 (日本の“現代”)

テレビ的教養 (日本の“現代”)

日本のテレビ放送事業の成立時の野望とヤバさを知るには、この本がベスト。MBS設立に自民党の大物政治家が絡んだらしいことも指摘されている。

そして「テレビ文学館」のさらに2年後1970年には、MBSの千里丘の新社屋のすぐご近所で大阪万博が開催される。

(MBSと直接つながるわけではないが、お祭り広場では、太閤秀吉に扮した片岡仁左衛門の御前に関西の伝統芸能が勢揃いする体裁のパフォーマンスがあった。

伝統芸能の皆さんは、21世紀になって橋下くんに屈するよりも40年前に、わざわざ千里の丘を上がって、太陽の塔の下に集まっていたわけです。世界をおもてなしするお祭り、という名目で、北摂が大阪の中心になったかのように錯覚できた瞬間だったのかもしれない……。)

戦前の関西について「阪神間山の手モダニズム」ということがひと頃さかんに言われたが、1960年代以後の千里丘陵の一連の開発プロジェクトが、「北摂中間層文化」を育てたように見える。

阪神間山の手の「モダニズム」に対抗して、北摂中間層は「ポストモダン」であった、と図式化できればわかりやすいのだが、そこまで言えるかどうか。

(シュールな笑いに突き進んでしまうポストモダン風の松本人志(尼崎出身)よりも、お笑いオタク・引きこもりを自称しながら仲間・ともだちと群れて、絶えず「役割」を演じたがる岡村隆史(東淀川出身)のアイデンティティの希薄な揺らぎのほうが、むしろ「北摂的」だと思う。)

「つながり」の戦後文化誌: 労音、そして宝塚、万博

「つながり」の戦後文化誌: 労音、そして宝塚、万博

「宝塚・労音・万博」の三題噺につなげれば、「北摂中間層」は、むしろキッチュかもしれず、いずれにしても、「北摂中間層文化論」を誰かどうにかして欲しい。

いちおう阪急沿線ではあるけれど、東京の郊外私鉄沿線論とは、またちょっと違ってくると思うのです。

(大阪大学も、「懐徳堂」とか「適塾」とかいうてるけど、今では医学部や付属病院が中之島から吹田に移転して、大阪市内にはほとんど何も残ってない「千里・北摂の大学」やからね。大阪大学は、大阪市を空洞化する千里・北摂の磁力の象徴、橋下くんと地下水脈でつながり得るワルモノかもしれへんで(笑)。)

……というような風に考えていくと、まったくの余談脱線だが、大阪都構想は、「大阪という表象」を北摂が簒奪する野望の集大成なのかもしれない気がしてくる。

そういえば、MBSが千里丘に移転したとき、広大な敷地の諸施設は「ハリウッドの最先端スタジオがお手本」だったらしい。そして思えばハリウッドとは、西海岸の砂漠の連中が勝手にアメリカを代表して、その表象を全世界へ売り出す「夢の工場」であり、遂にはそこから大統領まで出してしまったわけですね。北摂への放送局の移転(今は茶屋町に戻って来たけど)と大阪万博/吉本芸人の東京進出/橋下都構想、3者の間には、それに似た意図せざる関係を想定していいのかもしれない。

参考:「都道府県」vs「市町村」

残念ながら、USAの場合と違って、北摂発の大阪再生計画には、どうも、観念・表象の一人歩きの虚しい印象がつきまとう。

大阪のものは大阪に返すべきやと私は思う。北摂から昼間だけ大阪市に出勤している者が、大阪市の解体に同意するよう大阪市民を焚きつける、などというのは、どれだけ悪辣な「住民投票」であることか。それは、地方自治ではなく、植民地支配の手法に近い。

大阪―大都市は国家を超えるか (中公新書)

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砂原先生は大阪市大から大阪大へ移られたそうで……。

維新・大阪府・都構想派、大阪市・地方自治堅持派、どっちが勝っても大丈夫そうな立ち位置ですなあ(笑)。

[補足:自分でも忘れていたが、3年前にこんなまとめを書いていたようだ。

http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20120627/p1

長いですが、よろしければ、あわせてどうぞ。]