承前:反知性主義がことの「本質」なのか?

私は大阪で今佳境を迎えつつあるのかもしれない出来事(でも維新以外の地元政党はみんな反対なんでしょ、本当に過半数を得られるの?)に「反知性主義」のレッテルを貼って得意顔な人たちは、間違っていると思っている。

橋本くんと維新の人たちの行動から、知性への敵意、と分類できそうな特徴をリストアップして、反知性主義こそがその本質だ、と診断する論法があるわけだが、私には、彼らの反知性主義的意匠は手段であって、それが目的ではないように見える。

知識人が、気に入らない現象に反知性主義のレッテルを貼って、政治では敗北しても理論では勝ったつもりになるのは、クレメント・グリーンバーグやフランクフルト学派が全体主義の文化に「キッチュ」のレッテルを貼って優越感に浸っても、1940年代の事態が何ら好転しなかったのと同じことだと思う。

三つの新体制――ファシズム、ナチズム、ニューディール

三つの新体制――ファシズム、ナチズム、ニューディール

これに比べると些末な事柄に思えるかもしれないが、「シゴキ」とか「体育会系」とか「ブラック企業」とかに観察される様々な極悪非道を、現象としての酷さだけ取り出して批判しても「文系の遠吠え」で終わってしまうのが、ほぼこれと同型なのではないだろうか。

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ところで、

投票率がどれだけ低くても、選挙活動がまったくの野放し状態であっても、住民投票で賛成の得票が過半数を上回れば大阪市が消滅する

というのは、そのような特別法を作ったうえでの行政手続きであるらしいのだが、こんなやりたい放題、リベラルな人たちの得意技であるところの「違憲の疑い」はないのだろうか。

ご自慢の「知性」は、慨嘆するために使うのではなく、対抗策を練るのに使ってくれ!