散文のリテラシー

論文は、(「物語」を論じた論文も当然そうだが)物語ではない散文として書かれる。

陳腐な「物語」が氾濫する俗世を生き抜くオトナを育てる高等教育に必要なのは、plot や story には還元できない散文を読み書きする力を養うことではないだろうか。

そして「散文」(で書かれた論文)から「物語」を読み取ることしかできない人間が物語を論じようとするのを見かけたら、100年早い、と抑圧してもいいんじゃないか。

たぶんそういう人は、「散文」が読めないだけでなく、「韻文」の読み書きもあまり上手じゃなかったりするはずで、音楽の韻文と音楽の散文、という話をしても猫に小判なのだろうし(←敢えて断定)。

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ちなみに今日はバッハの半音階的幻想曲(fantasiaの後半が興味深いrezitativoになっている)とモーツァルトのニ短調の幻想曲を学生さんといっしょに分析したが、もちろんこれらの作品に「物語」はありはしない。

いかに「自由」(なファンタジア)を作曲するか、という話は、散文的な技術論の集積を通過することになるが、

通常イタリア語の詩行のアクセントはどこに落ちるか、オペラ歌手は出だしの音どうやって取るのか、みたいな実践的な話から、ピカルディの3度の効果やゼクエンツとエンハーモニックの違いや、発展・変奏と連想的変形の違いに飛び移るのは、十分に興味深く語り合い得る案件だと思う。

(たとえばベートーヴェンの第九のバスの「O Freunde」の最初の音は A なわけだが、その前の騒々しいトゥッティが最後にチャン、チャンで A 音のユニゾンで収まって、それを受けて歌い出す形になっている。この場面に19世紀の勤め人たちがどういう「物語」をくっつけたのか知らないが、ベートーヴェンさんは、何十分も出番を待って緊張しまくっているに違いない歌手さんがスムーズに歌い出すことができるように、さりげなくとっても親切に作曲しているわけです。

若い頃に劇場のピットでヴィオラを弾いて、一時期は作曲家として劇場に寝泊まりしていたようなプロ中のプロの音楽家なら当たり前の配慮だろうし、ことほど左様にベートーヴェンはこの楽章に劇音楽の語彙を投入している。(劇音楽の語彙を投入することで終楽章を先行楽章とは異なる「ステージ」へ引き上げるアイデアは第5番のピッコロ、トロンボーンによる行進曲の進化形だろうし、これがのちのベルリオーズの「劇的交響曲」の構想の端緒のひとつと位置づけられよう。)こんな風に考えればこの楽章をめぐるモヤモヤはほとんど片付いてしまうのだけれど、19世紀教養市民(とその遅れてきた後継なのかもしれない現在の英米の自称「新しい音楽学者」たち)はそのような繊細な語彙を持たず、物語風の言葉遣いでピントのボケた心象を弄んで七転八倒している。それだけのことです。)

[だからドイツ音楽は「劇場」を参照しないと読み解けないとあれほど言っているのに……。人の言うことはちゃんと聞きなさい(笑)。]

技術用語を用いた記述は無味乾燥である、というのは、聴覚文化の領域を不当に制約・抑圧する「悪しき物語」(イデオロギー)であろう。

技術が活気を帯びるには時間がかかるが、習得にたっぷり時間をかける贅沢はエリート養成の基本だろうし、シロウトに物語を売る方法ばかりが上手になってもしょうがない。