外山雄三と大阪

http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20150527/p1

↑を補足するような話になるが、

「私が大阪フィルと初めてお付き合いしたのが、1959年、朝比奈隆先生が、新しい作品をやれってことで、ストラヴィンスキーやバルトークなど近代曲を沢山させていただいた。そういう時代からなので、大阪は自分の街の楽団と同じように思っている。」

「昔の大阪には朝比奈隆と大阪フィルしかなかった。それは素晴らしい時代だったが、必ずしもすべてがうまくいっていた訳ではない。今、大阪の4つの楽団を目の前にして、この目覚ましい技術的な進歩は、私の世代には感慨がある。」

時代が一巡して、外山雄三先生が60年代の大阪(外山さんはそのあと京都市交響楽団でも常任指揮者をやったので60年代を丸ごと関西で過ごしたことになる)をご自身の言葉で公の場で振り返る巡り合わせになったのは感慨深い。

(引用は関西音楽新聞756号、2015年6月1日号1頁)

外山さんが大阪にいた時代こそが、20世紀の前衛・実験音楽が「コンテンポラリー」で「新しかった」時代です。

(外山さんは大フィル定期でバルトークをとりあげたり、大阪の秋国際現代音楽祭で新作初演を色々やるとともに「エディプス王」の演奏会形式上演(日本初演)などを手がけた。で、中学・高校時代の西村朗はこういうのをリアルタイムに浴びるように聴いて育った。)

そして外山さんの人生が一巡りしたようにそのあと音楽も色々あって、2000年に、ロンドン・シンフォニエッタ(武満徹のお友達がリーダーだった)の向こうを張って船出したのが、西村朗を音楽監督に立てる、いずみシンフォニエッタ大阪なわけだ。

21世紀大阪の4つのオーケストラを「朝比奈・大フィルしかなかった時代」と同じ話法で語ることができないように、21世紀の実験音楽は、「コンテンポラリー」な「新しさ」話法を踏襲するだけでは苦しいよね。

でも、それが単なる過去の延長ではない「今」を生きている面白さでもあるわけだ。