- 作者: 筒井賢治
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2004/10/09
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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「Tone pleromas」の語を黛敏郎はヴァレーズから借りたと語っており、それは「荘厳さ」のオーラを身にまといつつ屹立する強靱なサウンドを肯定するような意味合いがあると説明したようだが(←このあたりを含めて誰か「三人の会」全記録みたいな本を作って欲しい!)、
そもそもそれじゃあ pleroma の語に特別な意味を担わせたのは誰なのか、思想史的に遡るとグノーシスにたどりついてしまうようだ。
邪神の創造したこの世において、我々は救世主の導きで覚醒する、ときの終わりに現世が焼き尽くされて pleroma が開ける、とか、そういうストーリーであるらしい。
(グノーシスは「認識」を意味する語で、その反対に否認すること、知るのを拒むことが、否定接頭辞の付いた英語の ignore ですね。)
上で紹介した本の著者は、こういうのが紀元後2世紀に広まったのは、古代なりに宗教と思想が大衆化して、なおかつヘレニズムを経て複数の神・複数の共同体が混じり合うようになり、かつての「共同体の神」から今の自分が遠く疎外されていると感じる不安(ただしその不安は生死にかかわるものではなく比較的安寧な日々における心の問題)から、人々が手軽な物語に救済を求めてしまう時代だったんじゃないかと整理している。
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著者は、「ふとした出来心=好奇心 curiosity」から道を踏み外した者が啓示を得て正道に復帰する「黄金のろば」の物語が2世紀に書かれたことに着目するが、「ふとした出来心/好奇心」というのは、これまた、「うっかり××と思ってしまう」を基本とする渡辺裕的な「私たち」や、その弟子のひとりである大久保賢氏の奇想好みを思わせる。
愛すべきドジっ娘キャラですね。
そして前に中沢新一が書いていたと思うが、なるほどグノーシスを踏まえると、ドイツのロマン主義や観念論(「近代の神話」ですか?)はグノーシス物語が転生した亜流のようなもので、特段新しい思想潮流ではなかったんじゃないかという気がしてくるね。