英国のナショナリズムと「人のいない自然」

ヴォーン・ウィリアムズの田園交響曲には人間が登場しない、というのは、最初に聴いたときから気になっているポイントで、おそらくこれがどこかでシベリウスにつながるのだろうと思うし、シベリウスを最初に評価したのは大陸ではなく英国だった、という話があるようなのだけれど、そういう動きが本格化するのは上の世代の大物エルガーが死んだあとの30年代になってからなんじゃないかなあ、という感触もある。

つまりこれは、大英帝国ではない普通の国としてのナショナリズムにこの国が目覚めたのはいつなのか、という話で、ホルストやヴォーン・ウィリアムズが民謡に関心を寄せたり、パーセルを復興する古楽の動きが先鞭をつけたのだろうけれど、田園交響曲の場合は、戦場の非日常の感覚・体験を自分のなかでどう咀嚼するか、というのが大きかったんでしょうね。

曇天(第1楽章は曇ってる、というのは、プレトークで藤岡幸夫に指摘されて、なるほど、と思った)に着目するパストラーレというのは、従来はあり得ない発想だったかもしれないし、

眼前に広がるのが、のどかな風景だとしても、そこが戦場だとしたら、いつどこで何が起きるか、ピリピリしているわけですね。その感覚はトラウマになりそうで、一度体験してしまうと、平時でも、牧歌的なホルンの周囲の空気が短調で張り詰めているように感じられてしまうのかもしれない(第2楽章の冒頭みたいに)。

グロテスクな幻影と、浄化・癒やしという後半のまとめ方は、わかりやすいというか、まあ、コンサートで上演する交響曲だとそういう展開になるかな、という感じがするけれど、

最初の2つの楽章が重要そうですね。