ポリフォニーを「聴く」

というのは、おそらく、自ら歌いつつ他の声を聴く、という状態のことであって、すべての声の総和を聴くのとも、すべての構成音をサウンドの聴取によって聞き分ける/言い当てるのとも違う「行為/体験」だと思う。

そしてこのようにポリフォニーを規定すると、定義上、「自ら歌いつつ」を含まない純粋観察者はあり得ないことになり、ポリフォニーは、やらないと聴くことができない現象ということになる。

(つまりポリフォニーというのは、単にある場で同時に複数がワアワア言っている状態ではなく、そのワアワア言っているなかに「私」が混ざっているのが重要なのではないか、ということです。)

異論があるかもしれないが、ポリフォニーをこのように定義しておいたほうが、ヨーロッパの音楽の説明は、それを肯定するにせよ批判するにせよ、何かとやりやすくなる。

たとえば、ベッセラーの古い「共同体音楽」vs新しい「展示音楽」の区別と整合的で、古い音楽の説明がやりやすくなるだけでなく、近代になって室内楽が特別な価値を認められている事情の説明が楽になる。

(音楽が言葉(祈りであったり韻文であったり演説であったり会話であったり)に隣接すると認識された時代には「歌いつつ聴く」が重視されたが、「自分の時間」を作り出したい観察者が聴覚と視覚の対比をベースに視覚造形芸術に対抗し始めた頃合いで、「鳴り響きつつ動く形式」という新たなスローガンが打ち出されたのだ、とかね。)

あるいは、コードネームでハーモニーを把握して、キーボードやギターの弦をつかむのを基本にするサウンド作り(アングロサクソン系ポピュラー音楽の)が、ヨーロッパの音楽をベースにしながら、なんか違う、のを説明するときにも役に立つのではなかろうか。

「ド ミ ソ」のサウンドをつかみつつ聴く、とか、耳コピーする、ではなく、「ド」を歌いながらミやソを聴く、という行為・体験をジャンルとして不可欠とみなすか、副次的にしか扱わない(他の手段で置き換え可能とみなす)か、の違いだと思うのです。

そして、ジャズのアドリブが西欧の白人音楽なしには成立し得なかったのか、黒人のソウルなのか、にわかに判断しがたい議論の火種になるのは、彼らが独特のしかたで「プレイしつつ聴いている」からだと思うし、私たちは「歌いつつ聴く」のが人工的な文化(アート)なのか、人類は天然自然にそういうことができるようになっとるのか、まだ、見極めることができていないのかもしれない。

(人の話を聞けない言いっ放しに近い行為として音楽をとらえたり、あるいは逆に、ひたすら耳を澄ますことが推奨されたりするし、自己主張するときは主張することに懸命で、他人に従うときは自我がゼロになる、とか、ゼロサムで事態を説明するモデルがまだまだ幅をきかしているからね。

私は、授業でもいつでも、音楽を鳴らしながら/聴きながら平気でしゃべれるが、音楽を鳴らす間は黙ってしまう人が、今もむしろ多数派らしいし……。)

新しい和声──理論と聴感覚の統合

新しい和声──理論と聴感覚の統合

芸大ソルフェージュのリニューアルも、そのような意味でのポリフォニーを「聴きつつ歌う」を基本にしているように見える。だって、フランス式数字付き低音表記は、バスを歌い/弾きつつ他の声との距離を聴くシステムなんだから……。

島岡和声の売りは、あらゆる和音を記号化できてしまいそうなシステムをめざしたことなのだと思うけど、めざすものが違うんだから、その勘所がつかめればいいんじゃないかと思う。細かいところで不具合があるのは、まだ、教科書が出たばっかりでやりはじめたところなんだから、やりながら手直しすればそれでいいじゃん。