清濁の区別/gentleとviolentの区別

日本神道は教義なき儀礼宗教だ、と言われたりするようだが、それでも宗教学者は、日本神道として伝承される儀礼に、キヨメとケガレの思想を読み取ることができそうだ、と指摘したりする。

清濁の区別を世界認識の基本に据える、というような感じでしょうか。

この島には、文字(=歴史・過去を記録する手段)が仏教とほぼ一緒になって大陸から伝来しており、記紀神話とか、蘇我の外来仏教に対抗した物部の伝統儀礼といったって、そのような語り方自体が仏教伝来以後のフォーマットでなされているので、日本固有の思想とは何か、みたいなことを語るのは原理的に不可能に近いくらい困難だろうとは思うし、

清いものと穢れたもの、という区別は、宗教的な枠組みとして一般的過ぎるのではないかと思わないではないけれど、

なるほどこの島のなかでは、思わぬ所に、無前提・無条件に「清濁」を想定しちゃっていることがあるんじゃないか、くらいに留意しておくといいのかもしれない。

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……といっても大げさな話がしたいわけじゃなくて、

学問とか芸術とか文化とかに携わりたいと考えるときに、「清いこと」に関わりたい、「穢れ」から遠い神官のようでありたい、みたいに考えちゃっていいのだろうか

ということです。

「清濁の区別は既に解釈であり、データ自体に清濁はない」

とか、

「お金に清濁はない、経済・会計を学びなさい」

とか、

ということを言ったときに、そんなことを話題にすること自体が既に「穢れている」、となっちゃったり、逆に、その風潮を逆手に取って、キレイゴトへの対抗策として、泥臭い現場仕事とカネと欲望「だけ」を集めたものが強いのだ、とかいうことになったり、さすがにそこまで昭和感溢れる清濁二分法は、今さら有効ではないと思うけれど、

たとえば近頃話題の gentlification というようなことを考えるときに、これに「清濁の区別」を掛け合わせると、どうも何か妙なものが出てきそうな気がしないでもない。

gentle の対義語は violent である、というわけで、そこにあるのは、遠くマキャヴェリ以来な感じがしないでもない世俗世界の設計、一種の処世術じゃないかと思うんだよね。

(舶来の芝居や映画は、憎々しげな「悪/暴力」を、しばしば清々しいまでの長調で鳴り響かせるわけじゃないですか。それが西洋流の悪役像で、彼らはたぶん「穢れ」じゃない。)

gentle/violent をどこまで「清濁の区別」と切り離して考えることができるのか、どこで両者がリンクしてしまうのか。都市文化論は、そのあたりが勘所ではないか。

[追記]

あと、これ。

東「僕が高校生くらいの時、日本は神のように強かった。だから団塊ジュニア世代ってすごい日本好きなんです。桜井誠も僕の1つ下でしょ。その感性はすごいわかるんですよ」
東「日本ってすごく金持ちだった。僕も90年代前半に旅行したときには、中国や韓国に安く行けて日本がいかに金持ちかがよくわかった。でも国際的にはダメで、海外に行っても日本はイメージがない。でも金があるというのはすごく変な感覚。その鬱屈した感じがヘイトに行くのはすごくよくわかる」
東「そういうイケイケ感を持った団塊ジュニア世代がクリエイターになるとヤバイ。実際オタク系の同世代と会うと『日本は外交では負けているけど経済的にはすごい』という話ばっかりなわけ。『サムスンなんかパクリ企業だからすぐに潰れる』みたいなことを平気で言う」
東「一番重要なのは、その人達のなかでも官僚が一番強いってこと。彼らは日本をすごく信頼している」
東「だからネトウヨは団塊ジュニア世代の問題だと思っている」