パラダイム・シフトの条件

表現と介入: 科学哲学入門 (ちくま学芸文庫)

表現と介入: 科学哲学入門 (ちくま学芸文庫)

「科学も一枚岩ではない」ということで科学史に取り組もうとすると、科学を歴史化した人としてトーマス・クーンから出発せねばならぬ、と最初に『科学革命の構造』を丁寧に読むことになるようで、

いわゆる「パラダイム」が転換する前と後の「共約不可能性」を図と地が反転するだまし絵に喩えるところとか面白いわけだが、

クーンの「通常科学」と「科学革命」はあくまで少数の専門家集団による「運動」の問題だったはずだ、ということが強調されている。(今ではウィキペディアの「パラダイム・シフト」の説明でもこの点に注意が促されているので、クーンを語るときの基本、と見ればいいのでしょうか。)

さてしかしそう考えると、「一夜にして政治の風景が一変してしまった」的な言説というのは何なんでしょうね。

「日本のいちばん長い日」という1967年の映画(いわゆる「1968」の直前の映画だったんですね)を観ていると、まるで会長の最終決済で大企業の解散を決めるかのように粛々と会議室で戦争が終わる。

大日本帝国は、戦後の株式会社ニッポンから見たときに、決して理解不能の怪物ではないし、その「最後の一日」は、これですべてが一変した、という風な感じでもなかったかのような気がしてくる。

少数の専門家集団の運動は一夜にしてだまし絵のように「パラダイム・シフト」するけれど、近代国家はそういう風にはなっていない、ということなのではなかろうか。

デカイからこそ、ごくわずかの制度の改編で大きな影響が生じたりするわけだが、それは運動論的な文脈における「パラダイム・シフト」とは別の種類の事柄なのだろうと思う。

(そしてそれはおそらく、グランド・オペラのような通俗歴史劇が好む活人画風のスペクタクル、群衆をヒーローが先導したり、逆にヒーローが群衆に詰め寄られたり、というドラマチックな瞬間が政治の命運を決する、というのとも違っているのだろう。政治の表象も一枚岩ではない。)