音楽に「言葉をかぶせる」:新井鴎子の音楽劇のデジタルな台本について

おはなしクラシック[1]くるみ割り人形、ペール・ギュント、真夏の夜の夢ほか (新井鷗子の音楽劇台本シリーズ)

おはなしクラシック[1]くるみ割り人形、ペール・ギュント、真夏の夜の夢ほか (新井鷗子の音楽劇台本シリーズ)

どうやらこのあたりが、ファリャに朗読を「かぶせる」企画の元ネタもしくはお手本であるらしい。

くるみ割り人形(「花のワルツ」)の処理、ペールギュントのソルヴェイグの歌の使い方、山の魔王の宮殿にての言葉の入れ方などを読んで、音楽が既に鳴っているところに入ってくる言葉なのに、単体での朗読と言葉のモードが変化しないので居心地が悪い、と思った。そして全体に、具体的な描写をびっしり詰め込むので「言葉が多い」印象を受けた。

もちろん、こういう台本は実際にリハーサルしながら、上手くいかないところは微調整していけばいいわけだが、どうやら、こういう台本を書いてくるのは、「音楽と朗読によるドラマ」というジャンルというかメディアというか、についての認識が独特なんだろうと思う。

      • -

朗読と音楽を組み合わせるドラマは、決して「マイナー」ではなく、世界各地に長い伝統と豊富な実例があるわけです。

だから、そのドラマとしての特徴をあまり単純な単一のモデルにまとめて語るのは危険だとは思うけれど、とりあえず、新井氏の発想の特徴を浮き彫りにするための背景知識として言うと、多くの場合、このジャンルにおける「朗読」や「音楽」は、あくまで「部品」であって、何の部品かというと、物語もしくはドラマの部品と捉えるのが一般的だと思う。

そして「部品」の組み合わせ方は多種多様であり得るわけで、朗読と音楽を組み合わせるドラマの古今東西の多彩な広がりこそが、その多様性の実例ということになると思う。

だから例えばラジオドラマの台本は、M1, M2....という音楽と、語り手の台詞、効果音を原則として横並びに、どういう順番や階層にでも組み替えうるフラットなフォーマットで記述する。

      • -

一方、新井氏の台本を読んでいると、「朗読」と「音楽」は、自由に組み合わせうる「部品」というより、お互いに干渉せずに同時進行する複数の層(レイヤー)と捉えられているように見える。

本書に記されているのは、独立してまとめうる「語りのレイヤー」であって、「音楽のレイヤー」と組み合わせるときのキューは記してあるのだが、上で述べたように、M1 の最中の台詞であっても、M1 と M2 の間の台詞であっても、モードが変化した痕跡はほとんどない。驚くべきことに、「音楽なしに」、文字で綴られた物語として、スラスラ「読める」。

これは、朗読と音楽のドラマの台本としては、むしろ、異様なことだと思う。

何に似ているかというと、動画配信サイトの「コメント」(「キター!」「WWWW WWWWW WWWWWWWW」とか、字幕として動画に重ねて表示できるようになっている文字列)を流し読みした感じに似ている。

あの種の「コメント」が、動画データとは別のレイヤーとして処理されているのと同じように、新井氏の「朗読」は、音楽とは別のレイヤーで用意されて、音楽に重ねればいい仕組みになっている。

新井氏が、台本で「演奏にかぶせて語る」という表記を用いるのは、レイヤーをデジタルに重ねる発想を象徴しているように、私には思われました。

      • -

動画配信であれば、あるいは、同じように四角いスクリーンの中でコンテンツが完結しているテレビ放送であれば、この手法はアリだと思う。

動画配信では、「ウザい」と思ったら、手元のスイッチでコメントをオフにできるし、テレビ放送ではまだ難しいようだが、DVDやBlue-Rayだったら、字幕のOn/Off、特典付録の副音声コメンタリーのOn/Offをユーザが選択できる。

でも、コンサートや劇場での上演では、「朗読」のOn/Offを観客が個別に選択できない。

朗読者は、指揮者やオーケストラの楽員と「横並び」の出演者なのであって、「別のレイヤー」に隔離されているわけではない。同じ舞台の上で「共演」してくれないと、いなくてもいい(いないほうがいい)邪魔者で終わってしまう。

「新奇な試みを拒絶する旧弊な感性」からそのように言うのではなくて、むしろ、作り手の側が、ジャンル/メディアの違いをよくわかっていないことによる技術的な不適合だと思うのです。

      • -

「おはなしクラシック」を読むと、それぞれの台本が、上演時に不具合の兆候を示していたらしいことも見えてくる。

「真夏の夜の夢」ではクルト・マズアがリハーサルで怒り出して、かなりの台詞を削ったそうだが、掲載されている台本は、削る前のオリジナル版なのか、それとも、削ったあとの初演版なのか、いったいどっちなのか。本書にはその肝心なデータが記されていないので、不確かな推測をするしかないけれど、たぶんマズアは、用意された台本の言葉が音楽に「かぶりすぎ」ていることに苦情を申し入れたに過ぎないんじゃないかと思う。

ところが、新井氏は、マズアが「日本語は音楽に合わない」と発言した、というところをピックアップして、一向に反省の色がない。

でも、「ペールギュント」のときにも、市原悦子から、「ここはどういう風に読んだらいいんですか」と質問されたんでしょう。こちらも、どの箇所で市原さんが質問したのか明記されていないので推測の域を出ないけれど、経験を積んだ女優さんが、ドラマの状況、そのときどきの現場の空気(音楽が鳴っていたり鳴っていなかったり)を察知して、適切に語り口調を選ぶことができないはずがない。その質問は、婉曲に、「ここにこういう風に言葉をかぶせて本当に大丈夫なのでしょうか?」という疑念を含んでいた可能性はないのだろうか。

(新井氏は、大女優に謙虚に質問されたと恐縮するばかりで、いかにも鈍感な感じなのだが……。)

      • -

こういう台本で音楽にびっしり「言葉をかぶせる」ことを指示されたら、モノのわかった朗読者は、「本当にこれでいいの?」と確認した上で、どうしてもこれで行く、と言われたら、あとは、「受けた仕事だからしょうがない」とその通りに語るか、あるいは、口調やスピードなど、限られた手段でベストを尽くして、違和感を減じることができるように最大限の努力をするしかない。

(新井氏が回想する「真夏の夜の夢」での西村雅彦の早口とは、まさにそういうことだったのではないか?)

Sound Design  映画を響かせる「音」のつくり方

Sound Design  映画を響かせる「音」のつくり方

そして逆に「複数のレイヤーをミックスダウンする」という発想で行くとしたら、今度は分業が高度に発達・整備されているハリウッド映画のノウハウに学ぶべし、ということになってしまうのではないだろうか。台詞が聞き取りにくい事態を回避するためには、その場に鳴っているサウンドの周波数特性を考えなければいけない、等々というように……。

サウンド・デザインの具体的な手順を見ていると、「巨大産業」「工場」と揶揄されるハリウッドのスタイルも、現場はびっくりするくらい地道な手仕事の積み重ねだということがわかる。

平田オリザ (1) 東京ノート (ハヤカワ演劇文庫 8)

平田オリザ (1) 東京ノート (ハヤカワ演劇文庫 8)

あるいはこういうのをきっちり分析してみたらいい。

2組以上の会話が美術館のロビーで同時進行しているが、台本は、それぞれの会話をどのようなタイミングで重ねるか、綿密に設計されたタイムテーブルのようになっているし、実際の公演記録を見ると、声のトーンやスピード、間合いが精密に塩梅されているのがわかる。

「半透明のレイヤー」を重ねるオシャレ系デジタルは、こういう自制心と頭の良さがないと実現できない。(それが鼻につくところでもあるわけだが。)

平田オリザの現場 20 東京ノート 6カ国語版 [DVD]

平田オリザの現場 20 東京ノート 6カ国語版 [DVD]