全知ではない語り手:スコット・マクミリン『ドラマとしてのミュージカル』

「18世紀=古典派/19世紀=ロマン派/20世紀=現代」という100年区切りの三分法(ほぼ19世紀末から20世紀初頭の芸術様式論に由来するような)じゃなくて、ワーグナーの前と後を対照するような枠組みを色々探し求める今日この頃。

前のエントリーの総譜の段数の話も、近代吹奏楽の「誕生」はアドルフ・サックス以後だから、ほぼワーグナーと同時代なわけで、きっとそこにつながるだろうと思っているのだが、

『ドラマとしてのミュージカル』は、ミュージカル・コメディを「ポスト・ワーグナー時代の演劇」(岡田暁生が『オペラの運命』で世紀転換期の諸傾向をそう呼んだような)に位置づける構想でまとめられた野心的な本のようだ。

ドラマとしてのミュージカル: ミュージカルを支える原理と伝統的手法の研究   カーンからソンドハイムまで

ドラマとしてのミュージカル: ミュージカルを支える原理と伝統的手法の研究 カーンからソンドハイムまで

邦訳は、その肝心のワーグナーの邦題でニュルンベルクとニーベルンクをごっちゃにする誤記が放置されていたり、明らかに「回転木馬」と「ウエストサイド」を取り違えている箇所があったり、とっちらかっているのが残念だが、ちゃんと読むときに原書を取り寄せればいいよね。

現状では、あらすじくらいは知っていても舞台を観たことのない作品が多いので、ざっと飛ばし読みすることしかできていないが、

「ミュージカルのオーケストラはポスト・ワーグナー時代にふさわしく全知全能である」

という魅力的な断言があった上で、

「ミュージカルのナレーターは全知全能ではないところが面白い」

という風に論を展開しているようだ。物語の円滑な展開のためもあって、観客に語りかける特権的な演者がしばしば登場するのだけれど、ミュージカル・コメディでは、そういう特権的な演者がいつしか先の見えないドラマに巻き込まれる、という見立てであるらしい。

音楽劇における語り手とは何者か、ワーグナーで白鳥の騎士やブリュンヒルデが最後に長々と演説するのは、音楽劇としては異例中の異例なんじゃないか(コンヴィチュニーはそこにつけ込んでシュトゥットガルトの黄昏の結末をああいう風にしたわけだが)、とか、音楽劇を「ミュージカルから考える」のは、なかなか有力そうだ。

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映画は20世紀の新ジャンルとしてレコードと親和的な一方、ミュージカルはライブ的なわけで、音楽劇におけるオーケストラの全知全能感はそれがライブであるがゆえだ、と著者はちゃんと指摘している。

かたや18、19世紀のヨーロッパには、コンサート的・交響曲的な音楽文化(ベートーヴェン)と、劇場的・オペラ的な音楽文化(ロッシーニ)が並び立っていたとする考え方があって、だとすると、前者はレコード的なものへ接続し、後者がライブ的なものへ接続したと見るのが順当だと思われる。

ワーグナーが「シンフォニックなオペラ」を構想したのは、19世紀ヨーロッパの「音楽文化の二分法」を斜めの対角線でショートカットしているような感じがある。

そして岡田暁生をはじめとして、最近では、オペラ的なものが映画に流れていった、とする論説が繰り返されているが、

これは、ワーグナーで「斜めの対角線による対立のショートカット」という論法・話法を会得した効率重視のインテリさんが、同じように20世紀の「レコードvsライヴ」という二分法を、斜めの対角線でショートカットする企てだと言えるかもしれない。

ワーグナーからハリウッドへ、という標語を立てると、「交響曲vsオペラ」の19世紀と「レコードvsライヴ」の20世紀をまとめて一挙に最短距離で串刺しにできそうな感じがあるわけです。

しかしこれはまあ、目覚ましく訴求力があるけれども、フィールドを好き勝手に駆け回る「走り屋」のようでもある。こういう一挙に串刺し・ショートカット!が世間の喝采を浴びるのは、ヤンキー暴走族(「悪(ワル)」)への思春期の憧れみたいなものだろう。

話を一段階巻き戻して、「ドラマとしてのミュージカル」をショートカットせずに考える。こういうのは、19世紀におけるグランド・オペラやナンバー・オペラの意義を考えるのと同じように大事だ。

(ブロードウェイは1950年代半ばからの冷戦時代に「進化」を遂げたとされているところがあるわけで、1960年代の和製ミュージカル熱は、たぶんこれと無縁ではないだろう。昭和30年代をセピア色のノスタルジーで語る態度と縁を切る上でも、「踊る昭和後期の歌謡曲」の次は「音楽劇の昭和30年代」かもしれない。)