小澤と大阪

第2特集の小澤征爾と昭和の日本のオーケストラについての記事は、今後繰り返し参照されねばならぬと思う。岩野さんの満州のオーケストラの本が朝比奈隆語りのスタンスを変えてしまったのに似た仕事、時が経つにつれて意味が増すに違いない労作だと思う。

音楽の友9月号

音楽の友9月号

1988年に原田幸一郎がバルトークのヴィオラ協奏曲を弾いた小澤・大フィルの演奏会が定期ではなかったことを、この記事で知った。

(メインがチャイコフスキーの第5番で、当日券を買って聴いたはずだが、確かに大フィルの年史をみても定期演奏会記録には出て来ないですね。)

1960年代から関西での拠点という感じに小澤征爾は大阪フィルと共演していたが、これが事実上の最後で、あとは阪神淡路大震災後のチャリティーコンサートに駆けつけた1回があるのみ、ということらしい。

これ以後、関西ではローム財団がスポンサーになり、京都が小澤征爾の拠点になったように見える。(2000年に小澤征爾塾がスタートして、来年京都会館からリニューアルするローム・シアターにアトヴァイザーとして関わると発表されている。)

80年代終わりというと、サイトン・キネン・オーケストラの日本での受け入れ先を探していた時期でもあり、小澤征爾の日本での活動がこの頃組み変わったように見えますね。(ウィーンの指揮者になったり、活動の組み替えは日本国内だけのことではなさそうだけれど。)

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で、この88年の原田幸一郎とのバルトークは、定期じゃないし、今のようにネットでその日のうちにコンサートの情報・感想が飛び交う時代ではないので、どの程度の記録が残っているのかわからないが、最後に小澤征爾が振り間違えて、バラバラになって終わってしまったんですよね。

(次の日のリハで小澤さんが率直にミスと認めた、という話を当時伝え聞いたが、同じ曲目・組み合わせで各地を巡回したのだとしたら、「次の日のリハ」があったのも納得できる。一回かぎりのコンサートだったら、楽員と再会するのはかなり先になるはずなので。)

そういうわけで、小澤征爾はその後も関西に来てはいるのだけれど、良くも悪くも「特別扱い」で遠い感じがあり(関西だけでなく、90年代から小澤征爾は日本各地のオーケストラを振ることがなくなったらしい)、結果的に、どこがどう素晴らしいのか、公演に接するだけではイマイチわかりづらい存在として今日に至っている。

(「サイトウ・キネンは小澤が振ると見違える素晴らしい演奏になる、あれを聴かなきゃ、オザワはわからないよ!」という言説(伝説?)がその頃から流布しているわけだが、そう簡単に松本に行けるわけじゃないし、行っても小澤を聞くチャンスは減りつつある今日この頃ですからねえ……。)

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このあたりのモヤモヤを晴らしつつ、伝説ではないデータで小澤論を「体質改善」するためにも、音楽の友の記事は大事だと思う。

オーケストラがやって来た、の常連だった70〜80年代、小澤征爾はもっと「近い」存在だったし、彼を介して、ボストンとか「世界」とかいうものを「近い」と感じることができたような記憶がある。そして個人的な体験としては、1988年の大フィルとのバルトーク/チャイコフスキー(音の記憶は今もある)が、この指揮者との距離感が変わる転換点になっている。