朝日会館メモ

中之島3丁目 時代と建築の響き合い 「よみがえる朝日会館」

  • 2015年8月28日(金) アサコムホール
  • 主催:アサヒ・ファミリーニュース社
  • 後援:朝日新聞社
  • 協賛:竹中工務店 関電工 高砂熱学工業
  • 協力:朝日ビルディング

1. 映像上演&トーク 若林あかね(映像作家)
2. 講演:文化装置としての建築 松隈章(竹中工務店)
3. トークショー「よみがえる朝日会館」(前島志保、紙屋牧子、白井史人、中村仁、山上揚平、山本美紀)

告知ページに朝日会館のいい写真が出ていたのに保存し損ねた。朝日ファミリーサイトは過去記事をさっさと消してしまって愛想が悪い(笑)。

以下、聴きながらのメモに[]で加筆(無保証)。

      • -

ベートーヴェン(朝日会館での演奏回数最多)とシェークスピア(同じく上演回数最多)のレリーフ(今はフェスティバルホールに飾られている)は、大阪府・大阪市から朝日会館に寄贈されたものだとか。

[寄贈云々の事情は知らなかった。]

朝日会館第三代館長は、元週刊朝日編集長だったとのこと。『會館藝術』の読み物としての斬新な方向性は、彼が決めたのかもしれない。 

[藤原義江を「我等のテナー」と持ち上げたのも、この時期なのか、だとしたら、そのあたりをメディア論として掘る意義があろう。昭和前期の「オペラスターの創られ方」を、赤盤レコードにおけるカルーソーの人気と比較して検証する等々。]

朝日会館の隣には、新大阪ホテル(現在のリーガロイヤルの前身)があった。

[ホールの隣にホテルがあるパターンはここからはじまって、旧フェスティバルホールの隣のグランドホテル、ザ・シンフォニーホールの隣のプラザホテル……と続くようだ。朝比奈隆とか辻久子とか、新大阪ホテル時代からの人はリーガロイヤルが好きだよね。]

以下、「朝日会館はここがすごい」2連発(笑)。

その1、朝日会館で初演された演目が色々あった!(知っている話ばかりなので、具体例は省略)

[東京で話題になった公演がしばしば大阪(朝日会館)で初演されたのは(夕鶴など)、「地方公演で練り上げてから中央に打って出る」という発想ではないか。大阪が最先端であった、の論拠とするのは牽強付会ではないか。]

その2、朝日会館には「映画アーベント」という人気シリーズがあった。

[ラインハルトの真夏の夜の夢やアステアのミュージカル映画の大々的な宣伝を會館藝術で見た記憶が確かにある。しかしこれは、朝日会館の功績なのか? 他の都市でも、こういう洋物映画がハイカラな娯楽としてエエトコの人たちの間で普通に流行ってたんとちゃうの? あとマキノ雅弘の「ハナ子さん」からMGM映画のバズビー・バークレイを思わせるオープニングだけを見せるのは、プレゼン技術としてどうなのかと思う。伝え聞くこの映画の特徴を考えれば、限られた時間に見せるべき決定的なシーンは他にありそうなのに……。せっかく権利処理をして、未だにDVD化されていない「幻の映画」を見せるのに、ピックアップするのがここなのか、それが発表者の考え抜いた末の判断なのだとしたら、ちょっと発表者の関心が偏りすぎているのではないか、と思ってしまった。]

[以上2点、いわゆる「大大阪」のトピックのうち、どれがこの都市の特性で、どれが都市の近代化の一般的な特性なのか、というのは、20世紀前半のモダニズムが国際性・普遍性志向であるだけに、なかなか言うのが難しい。「大大阪」論に飛びつく人が陥りがちなワナだ。]

『會館藝術』を大阪発の全国誌として展開する計画があったらしい。

[しかし戦争による雑誌統合で頓挫した、という風に、「戦争はモダニズムの芽を摘む暗黒時代」の朝日新聞史観で論が進んでいたけれど、それを言うなら、大阪で朝日会館が成功したあと、京都や神戸やその他各地に、「○○朝日会館」というのを作っているよね。何を何のためにどのように全国展開しようとしていたのか、朝日の文化事業全般の動向を押さえずに、雑誌の面白さだけをピックアップすると判断を誤るのではないだろうか。]

岡山出身でドイツに留学した宮原禎次が、大阪放送管弦楽団や、総動員体制(音楽文化協会設立後)の大阪交響楽団で、大澤壽人や朝比奈隆とともにしばしば指揮をしたらしい。

[宮原禎次は、たしかに誰かが足跡をちゃんと追った方がいいのかもしれない。「神戸女学院で教えた」と紹介されたので、へえ、と思ったら、在職は昭和11〜20年で、戦後までは続いていないようだ。片山杜秀がこういう紹介文を書いている。http://www.nipponica.jp/archive/comp_miyahara.htm ]

      • -

16人の建築家―竹中工務店設計部の源流

16人の建築家―竹中工務店設計部の源流

この本ではまだ朝日会館をうまく扱えなかったとおっしゃる松隈章さんの講演部分は、是非どこかで文章にしていただきたいです!