役者は舞台に複数回出て欲しい

今年は奇しくも夏休みに「楽しいオペラ」シリーズがあったわけだが、書くタイミングを逃していた話をひとつ書いておく。

松本で上演されたベルリオーズは、まあ喜劇であって、音楽ネタとして一番わかりやすいのは合唱の場面でカペルマイスター氏が印象に残るわけだけれども、しかし彼は、あの場面だけに出てくるわけじゃないわけですね。

見せ場はせいぜい一箇所くらいなのだけれども、その他の場面にも出てくる人物というのは、オペラでも結構あって、たまたま今思いついたのはヴェルディの仮面舞踏会の小姓オスカルとか、ああいうの。場の気分を変えるために一声歌うだけじゃなく、最後までちょこちょこ出てきますよね。

あれだけ出番があると、「役作り」ができるはずで、それはつまり、2つの地点からの角度がわかると三角測量でターゲットとの距離を計算できるのに似て、2回以上別のシーンに登場させると、その役柄が、歌い手にとっても、作曲家にとっても、立体的に動き出すんだと思うんです。

ばらの騎士の朝の閲見の場面は、テノール歌手をはじめとして、あそこにしか出て来ない雑多な人たちが舞台を埋めているけれど、あれはたぶん、「二度と出て来ない人物」の使い捨て、というのが、ドラマの作り方としては例外的なものだと脚本家も作曲家もわかったうえで、敢えて、惜しげもなく使い捨てる贅沢を敢行したのだと思われる(彼らは、必要とあれば黒人のお小姓を最後に「再利用」することもできるプロ中のプロなのだから)。

      • -

さてそして、びわ湖の「竹取物語」の前半の5人の求婚者たちのドタバタは、そういう意味では「ばらの騎士」風の贅沢であるという風にも考えられるけれど、ちょっと勿体ないようにも思われた。

たぶんそれは、後半で引き続いて登場するかぐや姫一家がいまいちドラマとして展開しなくて、帝や月の使者といった、さらに新しい人物の投入で芝居を保たせる作りになっていたからだと思う。

後半も贅沢・蕩尽が続いてしまうと、ちょっとお腹一杯で too much になる。せっかく5人の求婚者のキャラを立てたのだから、上手く後半に絡ませる手はなかったものか……。

いろいろな条件で今回はそうはしなかった、という説明はあれこれ成り立つのだろうとは思うけれど、おそらく大きな声では言えない問題として、同じ人物を複数のシーンに登場させ続けると、台本と音楽が途端に難しくなるんだと思う。

様々な先例から美味しいところを引っ張ってきて「場面」を成立させるのは職人的にやりやすいけれど(ミュージカルだと、多くの場合、ほぼそれだけで出来ていたりしますよね、ナンバーごとに作曲者が違っていたりすることもあるほどだし……)、でも、「人格」を成立させるには、さらに何かが要りそうだ。

たぶん、役を次から次へと「使い捨てる」風に脚色・作曲したのは、さすがにそこまでしか今はできない、というような、作者の力量の問題があったんじゃないかという気がする。

面白い作品ではあったけれど、やっぱりこれは言っといたほうがいいだろうと気になっていたのです。