聞こえくる大大阪

宮原禎次「大大阪」(1940)が2010年に本名徹次指揮大阪センチュリー響で再演された、というのは、「よみがえるラジオ歌謡」というNHK大阪制作の番組の公開収録ですね。このあと東京に戻って、吉田秀和「音楽のたのしみ」の最後を看取ることになった西川プロデューサーの企画。

大栗裕や大澤壽人のご遺族も客席に招待されて、西村朗が解説役に登場したりする華やかな番組でした。舞台の飾り付けが歌謡ショウっぽいのは、番組の公録だから。

作曲当時、宮原禎次はやはり洋行帰りの大澤壽人や、メッテルの引きがあったと思われる朝比奈隆と並んで、大阪の放送局で指揮者として仕事をしていたはずなのだけれど、この三人の関係がどういう風だったのかということは、ああいう時代なのでじっくり資料を整理しないとよくわからない。

戦後占領期の放送局の作曲家としてはポップス・オーケストラに転身した大澤壽人が頭一つ抜けるが、再独立直後の1953年に亡くなってしまい、その間にコンサート指揮者としての足場を固めていた朝比奈隆が大栗裕を作曲家に引っ張り上げてその穴を埋めることで昭和30年代に「戦後関西楽壇」の構図が出来上がる。(最晩年の大澤壽人に舞踊作品を委嘱していた花柳有洸が1958年から大栗裕に曲を依頼するようになるのは、大栗裕が大澤壽人のあとを引き継ぐ象徴的なケースだと思う。大栗裕が宝塚の管弦楽団に入団したのは昭和24年=1949年であるという風に自身が履歴書に書いているが、その前から大阪に戻っていたという証言もあり、大澤壽人に接触したこともあるようだ。)

でも、このあたりは、まだ不明なことが色々残っている。(最近見つけたのだが、朝比奈隆と一緒にかつてメッテルに理論を習っていた音楽評論家の宮沢縦一は、「関西は多士済々なのにお互いに仲が悪い」と1950年頃の文章で書いている。)宮原禎次は、戦後も作品を発表しているはずなのだけれど、何故か影が薄いですね。東京に転居して、広島などで仕事をしていたようだが、関西での若い世代の競争から早々に降りちゃったように見える。