大栗裕と芸術祭

[追記: 合唱組曲「彼」の作曲年が間違っていたので直した。]

大栗裕の芸術祭参加作品は3つあるが、

  • 昭和36(1961)年文部省芸術祭音楽部門 交響管弦楽のための組曲「雲水讃」(朝日放送)
  • 昭和38(1963)年文部省芸術祭音楽部門 ヴァイオリン協奏曲(毎日放送)
  • 昭和41(1966)年文部省芸術祭音楽部門合唱曲コンクール 女声合唱のための組曲「彼」(毎日放送)

「雲水讃」は、企画から何から朝日放送がお膳立てしたかのようにも思われ、作曲者自身「朝日放送の伊藤プロデューサーから……オーケストラ曲を書かないかということをいわれた」と書いている。

一方、毎日放送からの2回は、開局10周年の江利チエミを起用したラジオ・ミュージカル「私はビジネスガール」など、他にも大栗裕と色々仕事をしていた伊丹要二の担当だったようだ。1963年は、大栗裕がそろそろ作曲家一本でやっていこうとしていた時期でもあり、ヴァイオリン協奏曲は、相当の意気込みで書いたのではないかと思われる。

1965年は芸術祭が20回を迎えた年で、合唱曲コンクールは参加作品が多かったらしいが、大栗裕の「彼」はその一年後で、9月にMBSラジオ劇場で放送された作品で、9月の浦山弘三指揮による放送初演、作曲者が指揮して再録音した芸術祭参加番組の両方とも残っている。ディレクターが気に入って、「あれを芸術祭に出しましょう」ということになったのではないか。

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あと、これは偶然かもしれないが、大栗裕が初めて芸術祭参加作品を委嘱された1961年は、音楽部門に合唱曲コンクールが設置された最初の年でもある。

芸術祭合唱曲コンクールについては、『日本の合唱史』で扱われていて、

  • 1961-1972年 音楽部門で芸術祭合唱曲コンクールを開催(参加者は放送局で、出品作をラジオ番組として放送した。芸術祭音楽部門には、それ以前から「放送による参加」という枠があり、放送局は作曲家に委嘱して毎年新作を音楽部門に出品していた。合唱曲はコンクール形式になったが、それ以後も、管弦楽曲の新作等は、放送局から音楽部門に出品され続けている。なお1968年に文化庁が発足して、芸術祭の主催は1969年から文化庁になる)
  • 1973-1982年 音楽・合唱の放送による参加がラジオ部門に移される(=「ラジオ部門音楽の部/合唱の部」。FM放送の登場により、AM放送における音楽の比重が低下して、民間放送局による音楽・合唱の出品は減少傾向)
  • 1983-1984年 音楽・合唱の放送による参加は「ラジオ部門音楽の部(合唱曲を含む)」と改訂されて、合唱は独立した部門ではなくなり、合唱曲の出品はさらに減る
  • 1985年 「ラジオ部門音楽の部」消滅

ということになるらしい。

芸術祭と放送局の関係は、文部省/文化庁が放送局を巻き込むべく働きかけたのか、放送局側が参加を望んだのか、文化・放送行政としての方針・方向性のようなものがあったのかなかったのか、どうにも事情がよくわからない。

日本は、放送局のオーケストラが国内ナンバーワンの実力、ということに今でもなっているわけだから、放送と音楽の関係をちゃんと整理することは、「この国の形」を知るうえでどうしても必要な手続きだとは思うのだけれど、なかなか難しいですね。

日本の合唱史

日本の合唱史

(現在も続くレコード部門はこれらとは一貫して別枠。また、放送劇は音楽が重要な役割を果たすこともあるが、これはラジオ部門のドラマ枠になる。このあたり、芸術祭は、誰がどのような形態で参加するか、という問題が絡んで、ジャンル分けがややこしく、そのややこしさに、案外きめ細かく時代が反映されているようにも見える。)