第2章

”audile” とは?

ジョナサン・スターンが第2章の最初で言葉を尽くしてまとめようとしている案件は、日本で今ではお題目のように誰もが口にするようになった『聴衆の誕生』方式の「近代的聴取」とは、概念のスペックや力点が微妙に違っていそうなのだが、訳文がまどろっこしくて、要点がよくわからない。

第2章で下訳の担当者が交替したのはマズかったのではないか、という風に翻訳チームに文句を言ってもいいのかもしれないし、さしあたり、audile を決め打ちで「聴覚型の」と訳すだけで注釈を入れないのは説明不足だと思う。

audile = 知覚イメージの形成において聴覚像が優位である状態もしくはそのような状態にある人

というのは、どうやら19世紀の心理学が言い出したことらしいが、具体的に誰がどこでそのように言い出したのか、心理学では今もその主張が妥当とみなされているのか、既に否定された過去の説なのか、著者がキーワードとして使いたがっている言葉なのだから、面倒でも調べておいて欲しかった。(読者が各自でOEDあたりを起点に確認しろ、それぐらいやって当然だ、と開き直っていいものなのだろうか……。)

[下に続く]

責任を他人になすりつけてはいけない

でも、そんな感じに読者の間に動揺が広がるのは、著者の思うつぼかもしれないので、ジョナサン・スターンの本を小説か戯曲のように一行ずつ読む、というゲームに戻ることにする。

結論から言うと、第2章冒頭の listening とその技法をめぐる議論は、めくらまし以上の効果を生まず、失敗していると思う。

著者が綴りつつある「物語」の構成上、この章を語り出すときには、物語の話者は listening について、何らかの定義や定見を獲得していなければならないと思うのだが、読み進めると、どんどん事態は混迷する。

最初に来るのは、listening について、ここでは散発的な実例から仮説的に想定される「体制」の話しかできません、という断り書きだ。

しかも、それじゃあ(「ブルジョワ的」な「近代的聴取」を悪者扱いする左翼系聴衆論でおなじみの)聴取の制度論をやるのかというと、それも無理で、マルセル・モースの身体技法概念をもちだして、聴取という行為の身体技法的側面のいくつかを指摘することしかできません、という風に、話者は読者に、さらなる期待値・到達目標の「値下げ」を要求する。

「熟慮の結果、ここでは、聴取の身体技法的側面を audile technique と呼ぶことにする」

という宣言は、ハッタリが効いてはいるけれど、実質的には、「値下げ」のお礼にオリジナル・グッズをオマケとしてプレゼントするから許してね、ということだと思う。

聴取の身体技法的側面、という長い言い回しを audile technique と短く言い換えられる以上のメリットがあるわけではない。(audile の語は何やら妖しげだし……。)

この節が読みにくいのは、著者がもったいぶって言い訳に終始しているからだと思う。

結局最後まで、listening についての検証可能な話者の定義や定見は明示されないままなのだから、あまり意味のない節である。

そして著者のゴマカシゆえに読みにくいのだ、という判断から出発すると、訳者の混乱についても、「タチの悪い文章を訳す当番になって、ご愁傷様でした」と言うしかなくなる。

ジョナサン・スターンの歴史家としての仕事は意味があると思うけれど、「物語の語り手」としては、信用して良いのか少々不安になる。

"hearing" と "listening"

ジョナサン・スターンが第2章冒頭でアタフタするのは、hearing (本書の訳語は「聴覚」)と listening (本書の訳語は「聴取」)の関係が、本書の縛りであるところの構築主義(「技術は文化である」)を採用すると、語りがたいものになってしまうからだと思う。

既に第1章で sound reproduction という技術が hearing の近代的な(再)編成と絡み合って見いだされるプロセスが物語られたので、hearing の概要はおおよそ見えてきつつあると言って良いだろう。そして、もし技術と文化、生理・知覚と精神の間にヒエラルキーを設定する凡庸な常識を採用して良いのであれば、listening とは、このように再編されつつ見いだされた hearing の上に成り立つ上部構造だ、ということで話が片付いてしまうかもしれない。

第1章で物語られた「名もなき技術者たちとその制作物」にフェティッシュに魅せられるタイプの人たち(たぶんこの書物はそういう人たちを惹きつける)は、しばしば、ハイカルチャー嫌いのサブカル気質だったりすると思われるので、気取った listening とは縁を切って、21世紀は「名もなき技術者たち」のスピリットからリスタートした hearing のサブカル帝国になればいい、と夢想するかもしれないが、さすがにジョナサン・スターンはそこまで愚かではない。

そもそも、hearing のお話は、技術は文化だ、という前提があってはじめて見えてきたものなのだから、listening ではなく hearing こそが聴覚文化の「基盤」である、という主張も、何が「基盤」であるかの根拠が括弧に入れられたままで採用できない。

そして話者は、hearing と sound reproduction という技術/文化の生成プロセスが、ハイカルチャーな listening と対立するどころか、むしろ、listening という技術/文化の生成プロセスと骨がらみになっているらしい、ということを言うつもりなのだと思う。というか、第2章のイントロは、そういう話のための前振りなのが明らかだ。

もうちょっとうまくやれなかったのか、とは思うが、とりあえず、そこだけ押さえて、先へ進むことにする。

系譜学の限界

Audible Past の訳書は2章の冒頭で焦点が合わない感じになってしまうが、聴診器・間接聴診の話に入ると、再びピントの合った感じで流れが良くなる。最初のところはよくわからずに英語を日本語に置き換えていて、聴診器のところは、何が言いたいのかわかって訳しているように思える。

聴診器の話は、Audible Past を紹介するときにしばしば引用される「とっておきのネタ」でもある。確かに面白い話題を提供していると思う。

でも、この面白さは、学問として大丈夫なのか。

20世紀のラジオメーカーがヘッドフォンを奨めるときの広告と同じような文言が19世紀の聴診器の意義を語る医学書に出てくる、という、言葉遣いのアナクロニスティックな一致は、既に2章の最初で予告されており、ここはその詳述なわけだが、何故、100年の間を隔てた別の領域の言説が一致してしまうのか、著者の解釈、立場が明白に述べられてはいないと思う。

人類学(マルセル・モース)の身体技法という枠組は、人類学なので、100年程度のズレは誤差であるとみなすことができるような大きなスパンの議論を目指していたはずだが、それでは、著者がここで探究しようとしている歴史的な問い(「なぜ音響再生産技術の登場は19世紀末であったのか」)が宙に浮いてしまう。

スターンは、ジョナサン・クレーリーを「もうひとりのジョナサン」と呼んでクレーリーの視覚論と共闘するかのようなコメントを第1章の注釈に入れているが、クレーリーが19世紀の「感覚の錯乱」を語るときには、19世紀の自然科学と芸術(論)のシンクロニシティを指摘していましたよね。同じ手法で行くとしたら、ここは、19世紀の聴診器に関する言説と、19世紀の「聴くこと」に関する言説を比較しないといけないはずだが、スターンはそれをやらない。

歴史的な論証の手順をスキップして、人類学風の鳥瞰で見いだされた類似をそのまま歴史の議論であるかのように見せかけるトリックが「系譜学」なわけだが、これは、かなりマズいのではないだろうか。これでは、例えば、「ハンスリックの形式概念は20世紀のフォルマリズムを先取りする先進的なものであった」と主張してしまう古くさい音楽美学と論法が同じになってしまう。

著者が listening の取り扱いに苦慮するのは、19世紀の様々な領域を探索するが、「芸術論(音楽芸術論)」にだけは分け入るまいとしているせいではないか。そしてこれは、左翼的サブカルチャー論者の、あまりよろしくないバイアス、恣意的なフィルタリングなのではないだろうか。

19世紀の聴取論に、聴診器をめぐる言説に似た何かが見つかるのか見つからないのか、私にはわからない。ただ、スターンが聴診器をめぐる言説を「当時としてはニッチであった」と書いているのは、同時代に同種の論を見つけられなかったことを示唆しているようにも読める。もしそうだとしたら、音響再生産技術が登場する19世紀末までのニッチではない主流の聴取論がどのようなものであったのか、はっきりさせておいて欲しいと思う。話はそれからだ。

(19世紀の西欧音楽文化についての最近の研究成果を見ていると、芸術音楽をめぐる19世紀の聴取と20世紀の聴取は、スムーズに連続してはいないと考えた方がいいように思う。そしてそのように考えた方が、「音響再生産技術はなぜ19世紀末だったのか」=「なぜそれまで音響再生産技術が出て来なかったのか」、説明しやすくなると思う。)

19世紀の医者は本当に「問診」を軽視したのか?

Audible Past の2章の終わりで、1章の最後に提示された「口のオートマタ」と「鼓膜的機械」という主題が戻ってくる。

1章について、私はこういう感想を述べた。

つまり、スターンは、「口」から「耳」へ、というモデルの変更に、「生産」の時代から「消費」の時代への転換を読み取り、それを必然と考えているかのように思えてしまうのだが、それでいいのかどうか。

仕事の日記(はてな)

2章において、打診から聴診器の間接聴診へ、という新しい診察法は、まさしく患者の身体が発する音を医者が聴く audile techniques であると見なされ、そのような打診・聴診が問診(患者の口頭での訴えを手がかりにして病状を探ること)に取って代わったのは、口から耳への決定的な転換であったと位置づけられる。

たしかに、少し前まで、医者は患者の言葉に耳を貸さない傾向があったように思う。(私も子供の頃、医者のそういうところが嫌で眼科にかかるのが憂鬱だった。)そのような「医者嫌い体験」に照らすと、なるほどそういうことだったのか、と読者は膝を打ってしまうかもしれない。監獄や近代医学のマイクロ・ポリティクスを批判するフーコーあたりでお馴染みの論法である。

でも、映画や小説に出てくるハイソな家庭のホームドクターは、むしろ社交的だったりしますよね。専門家然としているけれど、こちらの訴えに対して聞く耳をもたない、というのとはちょっと違う。

19世紀初頭に聴診器が登場した頃の医学における問診と打診・聴診のせめぎあいを歴史的に再構成しようとするときに参照すべきなのは、第二次世界大戦の「新体制」以後の社会のインフラに組み込まれた医者たちの姿(福祉や保険に支えられて「匿名の当番医」が「匿名の患者」とランダムに接するのがデフォルトな状態では、平時の医者も、まるで軍医のように無愛想だ)ではなく、往年のブルジョワのホームドクターのイメージなのではないだろうか?

聴診器の登場で問診の意義が失効した、とまでは、おそらく言えないんじゃないか、と、このあたりを読んでいると、著者の性急な断言に不安を覚える。

Audible Past の話者は、「口から耳へ」という主題が出てくると、妙に論調が強引で、イケイケの煽り口調になる。もっと落ち着いて、資料にもとづく検証をやって欲しい。

(19世紀初頭の問診と聴診の関係を考えるのであれば、例えば、死体解剖を嫌悪して医者から音楽家に転向したと公言するベルリオーズの「口」と「耳」の関係はどうだったのか。「口」では医学への嫌悪を語りつつ、ベルリオーズの音楽は「耳の効果」に賭けているのだから、彼の医学嫌悪は近親憎悪にも思えるわけで、そういう事情をどのように腑分けできるのか。ジョナサン・クレーリーの観察者論の聴覚版をやろうとするなら、今後このあたりをひとつずつクリアする必要があると思う。)