オペラとバレエ

バレエの台本と振付

ポピュラー音楽系の人たちは、(おそらく専門分野を存続させるため、という事情もあって)聴覚文化とか資源としてのサウンドということを強調するけれど、オペラやバレエに関して言えば、長らく、音楽もしくは聴覚的側面(「聞こえくるもの」ですな)を強調しすぎたせいで、よくわからなくなっていることが多いように思う。

たとえばオペラは、演劇として考える、ということを愚直にやるだけで随分、景色が変わると思う。演劇というのは、筋・ストーリーに尽きる芸能ではないわけで、音楽劇というのは、ストレートプレイから見えてこない演劇の演劇らしさを、むしろ豊かに含むジャンルだと言えるかもしれないと思ったりするわけです。(岡田暁生がドイツでの議論を参照しながら、かつて、非アリストテレス劇、という言い方をしていたけれど、その射程は相当広いと思われます。)

で、バレエの場合は、さらに色々詮索すべきことがありそうだ。モリエールとリュリのコメディ・バレエが宮廷舞踊とどんな関係にあったのか、ロココや革命期のマイム中心のバレエというのがどういうものだったのか、パリ・オペラ座のロマンティック・バレエのロシアでの変容以前の姿はどれくらい復元可能なのか、等々、バレエの歴史の基本のようなところが、部外者には既にもうよくわからない。

たとえば現在クラシック・バレエで伝承されている定番のマイムの語彙(こういうしぐさは○○を意味している、というような)がどれくらい過去に遡って妥当なのか、バレエのマイムが形成された時期からの型がどれくらい残っているのか、というあたりから、ちょうど音楽における古楽・ピリオド・HIPのような「復元」の手がかりを得るようなことができるのかどうか。

そしてクラシック・バレエというと、チャイコフスキーの三大バレエが大きな存在なわけだけれども、白鳥の湖はプティパによる再演の型で伝承されていて、実はそもそも、台本と音楽の対応関係をはっきりとは確定できないと言うじゃないですか。眠れる森の美女は、初演時のままではない形が定番になっているようだし、他方で、くるみ割り人形は、作品としては大変有名で人気があるのに、振付に定番の型というのはないらしい。どうも、ロシアのバレエの古典にも、明白になっていない何かがありそうな感触です。

バレエ・リュスでモダンなバレエがはじまって、これについては情報過多に思えるくらい色々なことが伝わっているが、「それ以前」についての正確な情報がなさすぎるんですよね。

(そしてこの歴史の語りがたさは、ダンスを定義するのが難しいのとリンクしているかもしれない。

定義ということで言えば、音楽と舞踊の関係を考えるときには、リズムとステップに着目するのが、具体的でわかりやすくはあるのだけれど、「舞踊とはリズムである」という風な考え方は、実は、20世紀のドグマなのではないか、という気がするんですよね。)

春の祭典とボレロ

ボレロをイダ・ルビンシュタインがソロで踊ったのは、春の祭典の最後にプリマが踊り狂って死ぬのと関係があるんじゃないか、と学生さんがレポートに書いてきて、気になっている。ストラヴィンスキーとラヴェルの、音楽だけを聴いていたら絶対に思いつかない比較なので。

(似たような案件として、くるみ割り人形とボエームがどちらもクリスマスの話なのは、ちょっと気になる。プッチーニは他人のアイデアを盗む人で、オペラ界のモーリス・ラヴェルと形容したくなる。)

オペラ「道化師」は三角関係ではない

勘違いしていたのだが、オペラ「道化師」のネッダは、劇団の他のメンバーと浮気していたんじゃなくて、一般人と駆け落ちしようとするんですね。このお芝居は、19世紀のオペラが延々と変奏し続けた三角関係(トリスタンもペレアスもヴォツェックもそうだ)ではないことになる。「道化師」は「カヴァレリア・ルスティカーナ」と一緒にヴェリズモと言われるけれど、カヴァレリアは相変わらず村のなかの三角関係だし……。レオンカヴァッロの場合は、いわば通りすがりの部外者が悲劇のきっかけになるわけで、プロットが冴えているように思う。(カルメンは、いちおうまだ三角関係ではあるけれど、闘牛士エスカミーリョの内面がほとんど描かれなかったり、晴れやかな闘牛場での通り魔風の殺人だったりして、三角形のあちこちが壊れている。道化師はこれに似た感触だと思う。)

オペラは再演で稼ぐ

「芸術性」を言いがちな堅物のドイツを外して、フランスのトラジェディ・リュリックやグラントペラを横目に見ながらイタリアを中心にオペラの歴史を眺めると、「バロック的蕩尽」(岡田暁生が80年代ニッポンのバブルと重ね合わせながら自身のオペラ論の基軸に据えた観念)のさらに向こうに、地中海世界の世俗的な徳と名誉(俗世を切り抜けるマキャヴェリ的な virtuosity ですね)が見えてくるような気がするし、そうすると、1600年から2000年までの400年は、何よりも興行形態の変遷で見ていくべきじゃないかという風に思えてくる。

ロッシーニ、ドニゼッティ、ベッリーニとヴェルディとプッチーニは、何よりものっかっている商売の形が違っていたんじゃないかということである。ヴェルディの前半生が「苦役の時代」になっちゃったのは新作を劇場が買い取るシステムのせいだろうし、プッチーニが若い頃から寡作なのは、作曲家を丸抱えする出版社の支配が確立していたからだと思う。

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で、日本のオペラも、興行形態に着目したほうがいいんじゃないか。

浅草オペラから藤原歌劇団へ至る大正・昭和初期の人たちは、同じ演目を連日やったり、地方巡業をやって稼いでいますよね。そしてGHQの占領が終わった昭和30年前後の「創作オペラ運動」に1幕物や室内オペラ風の小編成が多いのは、手弁当の実験というだけじゃなく、1時間枠や30分枠2回で放送できたり、コンパクトな装備で巡業できたりというポータブルな売り方をしたかったのではないか。

この時代の最大のヒット作である團伊玖磨の夕鶴は、当初は幕間なしに上演することを想定して書いたのが長くなっちゃったようで、どこで切るか、現行の形が確定するまでには試行錯誤があったらしい。

関西歌劇団の創作歌劇も、当初のアイデアは1幕物の室内オペラということで、赤い陣羽織はコンパクトなおかげで、その後再演を重ねることになった。

大栗裕の2つめの歌劇「夫婦善哉」は、最終的に大がかりになったけれど、これも、労音が買って数日間の公演が実現している。そのあとの「おに」は1960年と1965年、「飛鳥」は1967年の春と秋、「地獄変」は1968年と1970年というように、やはり、きっちり再演されている。関西歌劇団の創作歌劇は、再演で稼ぐ、で回っていたようだ。

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ところが1974年のポセイドン仮面祭は、関西歌劇団の創立30年記念ということもあり、1回限りの公演で終わる。主要歌手総出演の演目なので、やりたくても簡単には再演できないし……。

大栗裕は1982年に亡くなってしまったが、どうもこのあたりから潮目が変わって、ちょうど外来の歌劇場引っ越し公演と同じように、補助金やら何やらの資金をかき集めて、1回の公演で収支のバランスを取るビジネスモデルに変わったように思えるのだが、どうなのか。

「オペラは金がかかる」というのは、規模がでかいのだから常にそうだが、再演による損益回収を見込んだ初期投資と、単発の資金調達では、随分意味が違うし、単発の資金調達(プラス公的助成)という手法は、オペラのグローバル・スタンダートというよりも、1970年代以後の歴史の浅いその場しのぎに過ぎないのではないかということである。

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佐藤しのぶや野田秀樹/井上道義が、びしっと形を決めて作り込んだプロダクションの巡業ロングランをオペラでやりつつあるじゃないですか。

あれは、新しいというより、オペラ興行をまっとうなところへ戻すための一歩ということだと思うのです。

1回限りの興行で、資金提供者は、金銭的な利益がないかわりに「名誉」を受け取る(○○賞とかね)、というのは、補助金行政方面に顔が利くのをいいことに舞台裏をチョロチョロして、あっちこっちに「ハロー」を言って(笑)、それで音楽評論家でございます、みたいのが出没する温床なわけで、いいかげん止めた方がいい。