ワーグナーとルール工業地帯

カール・エルンスト・オストハウスという銀行家の一族の芸術好きがいて、ルール地方の工業地帯に文化的な潤いがもたされるべきだと考え、資材を投じて地元ハーゲンに美術館や芸術学校を作ろうとしたそうだ。そして彼が考えた芸術村構想の設計にはブルーノ・タウトも関わったらしい。オストハウス自身は第一次大戦に志願して亡くなり、遺族がコレクションをエッセン市に売却して、現在は、彼の意志を継ぐ形で、美術館や芸術学校がエッセンで運営されているそうだ。

倉敷の大原一族などを連想させる話だが、時代は20世紀初頭、ワグネリズムが席巻した時代である。

そもそも第一次大戦に志願するところも、「昨日の世界」の誇り高きドイツ市民という感じがするわけだが、

オストハウスは、「芸術のある生活」という自らの理念を、北方神話のフライア(リングに出てきますね)の宮殿にちなんで、フォルクヴァンク Folkwang と呼び、この名前が一連の文化事業の名称として現在も受け継がれている。

エッセンのフォルクヴァンク美術館とフォルクヴァンク芸術学校の来歴である。

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……ということをさっき知った。

かつて岡田暁生がルール工業地帯に行ってその光景に驚愕して、「ワーグナーも、きっとこれを見てリングの産業批判を構想したのだろう」と書いていたが、当のルール地方に、ワーグナーに感激した経営者がいたわけである。