第3章

音響電信技術と「神の声」

Audible Past の電信を扱う3章で、電信の音からリテラルな情報だけでなく通信相手の状態・感情を聞き取り、相手に親密さを覚えることがあったというエピソードが出て、ここに、遠慮がちに視聴覚連祷の語が久々に出てくるが、

これは、著者が明言するには至っていないけれど、「神の声を聴く」という宗教体験が内面化されている文化であることが、電信の音(姿の見えない相手が発する)への親しみの感情と、どこかで関連しているのではないか、と示唆しているのだろうと思われる。

例によって、こういう話題にもっていこうとすると、緊張するのか著者の口調が妙にいかめしくなり、それと比例して、訳文が硬く不鮮明になっていくのだが……。

この議論に不用意に踏み込むと、ウォルター・オング風の「声の文化」論を批判的に乗り越えるつもりが、逆に絡め取られかねないので、取り扱いが難しいけれど、だからこそ、何をどこまで踏み込んで語っているか、語っていないか、注意深く読み、訳すべきところであろうなあと思う。

事実と解釈

Audible Past で音響電信を扱うくだりは、前章で間接聴診を論じたときと比べると資料や証言の引用が少ない。だから、解釈や読みの方向付けが、裏付けを欠く著者の誘導なのではないか、という疑いが残ってしまう。トピックとしては面白いのだけれど、そういう位置づけでいいのか、いちいち立ち止まって考え込んでしまわざるを得ない。

著者は、歴史学で許容される解釈や読みの範囲を踏み越えて、歴史研究としては言い得ないはずのことを言おうとして苦戦しているように見える。野心的かつ性急で、経験の乏しい若手研究者(の処女作)にありがちな症状だと思う。

「望遠」的聴取

Audible Pastの3章は、音響電信の検討から後半でヘッドセット小史に移るが、ここで一度立ち止まって考えたい。

電信 telegraph の tele- とは何なのか?

ジョナサン・スターンは、視覚的な比喩・語彙を括弧に入れた状態で聴覚・聴取を論じる立場を序文で宣言していたわけだが、tele- 「遠さ」の観念を技術・道具によって更新する営みは、スターンが着目した間接聴診という聴取の技法が最初ではなく、ガリレオに木星の衛星を発見させた望遠鏡 telescope がはるかに先んじていたのではないか。人体というミクロコスモスを「聴く」行為は、天空の彼方を「見る」経験が前提になっていたんじゃないだろうか?

望遠鏡はレンズによる光の屈折を利用する道具だが、光の屈折を利用する技術は望遠鏡に限られるわけではなくて、カメラやメガネは、望遠鏡とは別のタイプのレンズ(の組み合わせ)になっていますよね。そしてスターンが着目する tele- は、カメラで言う「画角」のあれこれと比較できそうな気がする。

時代がズレてしまうので、ちゃんとやろうとしたら色々手順を踏まないといけなさそうだが、以下、とりあえずの思いつきということで……。

広角レンズ wide lens と望遠レンズ telephoto lens の違いはカメラ入門ですぐに出てくる話だが、スターンが audile techniques (訳書では「聴覚型の技法」)と呼ぶ間接聴診や音響電信の tele- は、望遠 telephoto の「遠くを手元に引きよせる感じ」に相当すると思う。

(グラビアアイドルさんの写真は望遠で撮るらしい。背景がボケて、被写体の女の子の顔やバストショットや全身ショットがくっきり浮かび上がる写真は、離れた位置から「手元に引きよせる」の典型ですね。「attraction(引きつけること・引きつけられること=魅力)」を視覚的に実現できてしてしまうのが望遠レンズ、写真とは見る欲望の装置である、と。 )

でも、聴取 listening は、(そして「見る」という行為も)決して望遠一辺倒ではない。

ひょっとすると、音楽会場 auditorium での listening は、むしろ、広い視野で近くから遠くまでを見渡す「広角 wide」に似ているかもしれない。

(雄大な自然のパノラマ、みたいな写真は広角で撮る。映画がスタンダードサイズからワイドスクリーンになって、サウンドトラックがステレオから魚眼レンズめいたサラウンドに変わっていくのは、「見る」と「聴く」が手を携えて「広角域」を開拓したのかもしれない。そしてスマホのカメラのレンズは、「人間の見た目」に近い画角をコンパクトサイズに収めるために、歪まないギリギリまで広角に設計されているようだ。だから、19世紀末から20世紀が「望遠/引きつけ」の欲望を煽り立てたのに対して、20世紀末から21世紀は「広角/見晴らし」側に振られつつある、「テレからワイドへの転換」、それが World Wide Web 時代の世界像である、と見立てることだってできるかもしれない。)

ジョナサン・スターンが苦労しているのは、tele- な感覚、「遠くを手元に引きよせる感じ」が、写真であればフィルム/撮画素子に定着した像を見せれば簡単に説明できる事柄なのに、聴取の場合は、第三者が直接的には観察できないからだと思う。

「神の声が耳元に聞こえる」文化のなかにいたら、これはなおさら大変そうだけれど。