ITAMI 32L

豊中の庄内へ行くと旅客機が本当に頻繁に飛んでいるわけですが、どうやら、伊丹の空港の長いメイン滑走路(B滑走路の32Lと呼ぶらしい)の延長上に大阪音大があって、着陸コース(ファイナルアプローチと言うらしい)に入った飛行機を下から眺める位置関係になるようだ。

(庄内では、こういう景色が見えているコックピットを下から眺めているわけだ。)

大阪音大が現在の場所へ移転したのは1954年。

一方、木津川の大阪飛行場(1932年開港)が伊丹に移転したのは戦前1939年だけれど、戦後GHQに摂取されて、大阪空港として再開したのは1958年。翌年、国際線が開通して大阪国際空港になって、1964年からジェット機が乗り入れるようになり、これに対応するべく1969年に現在のターミナル、1970年にB滑走路が出来たらしい。万博の年ですね。

大学が新校舎(現在のメインキャンパスの校舎群)の建設に着手したのは創立50周年(1965年)の事業なので、新しい校舎が次々できるのと、頭上をジェット機が飛ぶようになるのは、ほぼ同時だったようだ。

(で、朝比奈隆は、毎年のように、大阪音大の頭上を飛ぶジェット機でヨーロッパへ行っていたことになる。直行便ではなく、羽田経由だったかもしれないけれど……。)

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調べてみると、飛行機の写真は、自衛隊の軍用機とか、旅客機とかジャンルが色々あって、伊丹空港周辺は、旅客機写真が趣味な皆さんにとっては老舗であるらしい。

そういえば、B滑走路の南端に接している千里川の堤防は、車をもっている阪大生が必ず一度は行く「名所」になっていましたが、

FlightRader24 というアプリで見ていると、伊丹や関空に飛行機が続々と離発着する様子がわかって面白い。

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日本の高度成長というと、1964年の東京オリンピックと同時に東海道新幹線が開通したことが象徴的に語られるけれど(黛敏郎が車内放送用のシグナルを作曲した、とか)、

大阪へ出てきてから、家族で鹿児島へ帰省するのに利用したのは、もっぱら飛行機だし、佐々木敦が「ニッポン」と形容する時代の国際化のツールは、ジェット機ですよねえ。考えてみたら鉄道は19世紀ヨーロッパが開発した交通手段で、20世紀は飛行機の時代。それは今も続いているわけだから、新幹線からリニアへ、というのは、どこかしら、日の丸ガラパゴスっぽいところがあるかもしれない。

(1970年代に小学校の社会見学・遠足で伊丹空港に行ったことがあるけれど、空港は社会見学の対象になっても、国鉄新幹線駅は、そうはならないよねえ。大阪へ来て最初の借家が崇禅寺だったので、新大阪駅は、子供の頃、親と一緒に「しんかんせん」を見に行く定番の散歩コースだったが……。)

日本航空一期生

日本航空一期生

朝比奈隆の評伝を書いた中丸美繪が、JAL一期生のルポをまとめたらしい。この人の着眼点は一貫していますね。彼女が興味津々な「戦後」の上に、佐々木敦なら「ニッポン」呼ぶであろう何かが覆い被さって今日に至るわけだ。北摂のような郊外住宅地から眺めていると、これは、時代の推移というより、地層の重なりのような感じがします。