視聴覚資料

大栗文庫の引っ越しが最終段階に入って、改めて思うのは、紙の原資料と視聴覚資料は、保管方法が違ったほうがいいのだろう、ということだ。

紙は、原資料をマスターとして閉架で管理して、それにもとづく出版物を公開する、という区分けでいいけれど、図像(端的に「もの」)や録音物は、それ自体(もしくは複製)を公開する開架式のほうがよさそうだ。

いまはまだ、そのための段取りを組むことができないが、視聴覚資料がここまで来ても、どうにも、ぴったり収まった感じがしないのは、開架・公開の筋道がすっきり見えていないからなのかもしれない。

開架・公開を想定すると、そこから逆算して、保管や分類について、何かアイデアが生まれるかもしれない。

貴重資料の整理・管理は、どこかしらストイックな構えで進めざるを得ないが、視聴覚資料は、「効果」を生み出さないと十全ではない。それを使って「遊ぶ」場がないと、生きない気がする。

ひょっとすると、「もの」とのそのような関わり方は、肯定的な意味での「子供っぽさ」というキーワードで呼ばれ得るかもしれぬ。

(ルーズでいい、というのとは、ちょっと違うような気がするけれど。)