情報の圧縮と展開

録音テープの整理作業とは、そこに記録された情報の数々を人間が理解できる言葉や図像に変換することだと考えて半年やってきたわけだが、実際に結果を出力してみると、情報の圧縮と展開ということに思い至る。

言葉や図像にすると、えらく膨大な分量(コンピュータの助けを借りないと、とても処理できないような)になってしまうことがわかってきた。

21世紀は、もうこの膨大な情報を20世紀から伝承されたままの状態(すなわち録音や映像等々が「コンテンツ」としてまとまっている状態)で転がす(弄ぶ)ことでよしとするのか、それとも、ひとつずつ展開して、いわゆる「人間の歴史」に接続して物語る営みを続けるのか。

前者が「子供の心」という処世術に相当し、後者が、そのような態度を採用した者の目に映る「抑圧的なオトナの態度」であるという風に、おおまかに言いうるかと思うが、

影響の大きさに鑑みると、少なくとも「両論併記」でしばらくは過渡的な状況に耐えたほうがいいのではないか。

性急な決断は、どっちに転んでも不幸が待ち受けている予感がある。

炭鉱のカナリアの比喩は、こういうときに使うといいのかなあ、と思うのである。

(19世紀(まで)の「作品」を20世紀が解釈・分析した経験の延長にある話ではないか、という風に思えないこともないけれど、20世紀後半の文化論者が批判したように、19世紀の「作品」は、いわゆる「傑作」を丁寧に読み解いておけば、その他大勢はその応用で処理できた。そういうヒエラルキーがあることになっていたわけだ。

しかしどうやら、20世紀が生み出した数々の「コンテンツ」は、「定番」「名作」「ヒット作」のほうがむしろそこに込められた情報の展開は紋切り型に陥りやすく、ほとんど「コンテンツ」とすらみなされない断片群のほうが、情報の展開がはるかに複雑で扱いが難しいように思う。「定番」「名作」「ヒット作」は、そういう知見を還流させる回路を組まないと、あまり面白い展開が生まれない。これが、大衆社会とか、日常性の意義、ということなのでしょう。なかなかやっかいではあるが、後戻りはできないのではないかという感触がある。)

[なお、上の感想は、「19世紀はキャノンが確立していた大文字の物語の時代、20世紀はそうじゃない」という話法と、一見似ているが、意図的にこれを採用していない。「19世紀を20世紀が解読する場合」と「20世紀を21世紀が処理する場合」の異同を問いたいと私は思う。ポストモダン談義は、こういう問いに変換したほうが、いわゆる「人文学の未来」という話題に接続しやすくなると思うのです。20世紀は、あたかも19世紀の作品を扱うかのようなトップダウンの手つきで20世紀のコンテンツにアプローチした。20世紀のコンテンツに封入されている情報をボトムアップで展開するのは、これからの課題なのではないか。]