一等三角点

大栗裕の遺品のなかに、写真を引き延ばして額縁(10号ポートレートサイズの相当するようだ)に収めたものがある。

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ネットを検索した画像と比較すると、木曽御岳山剣ヶ峰の山頂のように思えるのだが、まだ自信はない。写真右の印象的な石積みは今はなく、「御嶽山頂上 三.〇六七米」と書かれた木製の標識が立っているようだ。

(実際にやってみることが大事、と言っても、標高3,000メートルの登山に今から挑戦するのは、さすがにちょっと……。)

こちらの方のお調べになったところによると

http://shumiyama.web.fc2.com/yomoyama/hyousikihensen2.html

過去10年でも標識はどんどん変わっていくものらしい。大栗裕が登ったのは、観光化・カジュアル化が進みすぎる前だったことになりそうだ。

もし本当にこの写真が剣ヶ峰だとしたら、写真に写っていないさらに右には、既に一等三角点があったはず。

近代測量は三角測量ですが、明治24年には彼[桑名出身の館潔彦]は撰点官(せんてんかん)となり、一等三角点を選定することを主な仕事としました。明治26年から27年にかけて、彼が選定した一等三角点は、穂高岳・御岳山・乗鞍岳・立山・木曽駒ヶ岳・白馬岳・赤岳などがあります。初めに書きましたように、彼は、測量という仕事を通して日本アルプスの山々を踏破しているのです。道らしい道もない山道を器械を担いで、高い山の頂上に登っているのです。ときには風雨に見舞われたり、野獣に襲われたりしたこともあっただろうと思われます。

 彼は、明治38年に退職していますが、大正4年(1915年)に「洋式日本測量野史」を発表しています。晩年は桑名の尾野山に住んでいます。昭和2年(1927年)6月4日に79歳で亡くなりました。

郷土史研究の歴史(5) - 郷土史(郷土史研究の歴史) - 桑名市~本物力こそ、桑名力。~

ということであるらしい。

(伊能忠敬や間宮林蔵が有名なのは、海岸線の測量こそが海洋国ニッポンの国境を見定める基礎である、という近代国家の事情とリンクしていると思うが、国内の「山」については、昭和初期には、京都周辺ですら、あちこちに未調査の空白が残る状態で、京大山岳部は近隣の山で探検の腕を磨いた、という説明が梅棹忠夫の評伝に出てくる。大栗裕が山歩きをはじめたのは遅く、1970年代のことらしい。)