20世紀の漢文脈と21世紀の英米化

昭和2年生まれの恩師谷村晃の最初期の論文は、戦後だが旧仮名遣い。昭和ヒトケタ生まれは旧仮名遣いで育って、戦後、それを捨てて新仮名遣いに移行したことになる。

でも、戦前の言文一致体の文章の多くが戦後、新仮名遣いで出回っているように、表記が違うだけで、戦前旧仮名遣いと戦後新仮名遣いに文体上の断絶がある感じはしない。おおむね慣れの問題だったようだ。

むしろおそらく、20世紀の日本語の課題は、漢文脈からどう脱却するか、というのが大きかった気がする。漢文訓読の応用ではない欧文和訳を模索する過程で言文一致体が生まれた、と言えそうな面があるようだし……。

最近の翻訳音楽書のなかには、「それは20年以上前にドイツで言われていたことの焼き直しではないか」と思えるものが混じっていて、ちょうど20世紀に漢文脈が衰退したように、21世紀は、文体、修辞から論の構成を含めた「独文脈」が衰退したんだなあ、と思う。漢訳仏典を経由せずにインド仏教にアクセスしたり、漢籍や中国文芸を世界文学のひとつとして読むように、英語からの重訳じゃないとドイツの話を咀嚼できなくなりつつあるような感じがある。

(先月のびわ湖ホールの「さまよえるオランダ人」は、ドイツ人ハンペの演出だが、「パイレーツ・オブ・カリビアン」仕様のフライング・ダッチマンの物語になっていて、迫力満点のプロジェクションマッピングを受注したのは、なんばの味園ビルにアトリエがあるCosmicLab。今はそういう時代だ。)

そして「グローバリズム」の標語で推進されつつあるのかもしれない事態は、旧仮名遣いから新仮名遣いへの転換に似ている印象がある。

昭和ヒトケタ世代は、新仮名遣いへの移行をおおむねスムーズに受け入れた一方、漢文脈からの脱却については、既に戦前から「モダン」であった人たちから漢文脈の美徳を信奉する人たちまで、まだらで温度差があったように思うのだけれど、

最近の「人文」は、思考の英米化をおおむねスムーズに受け入れる一方で、「グローバリズム」については、既にそういうことが言われる前からサバけていた人から、頑として抵抗する人まで、まだらで温度差があるように見える。

面白いものですね。都市化の進行が、言葉と風俗についてのフェティシズムとスノビズムを極端に増進させた、という診断になるのでしょうか。

私は、さっさと「グローバル化」したうえで、英米化については、是々非々でじっくり事態の推移を眺めるのが得策ではないかと思っています。