1930年代の「国際性」

フランス六人組やヒンデミット、プロコフィエフやバルトークが華々しく世に出た1920年代は、国際協調と民族自決の時代。

ショスタコーヴィチのレニングラード交響曲やコープランドのリンカーンの肖像の1940年代は、英米ソと独日伊が交戦した戦争の時代。

この2つの時期はイメージが鮮明だが、1930年代がよくわからない。

ひとつには、ヒトラーの周辺国への侵略に対する英米の対応が1930年代には(まだ?)曖昧で、勝者=連合国・国連の側から第二次世界大戦を総括して物語ろうとすると、このあたりの歯切れが悪くなってしまうのかもしれない。

(満州事変以後の日本の大陸での侵略行為と、真珠湾以後の太平洋戦争の関係も、同様に歯切れの悪い語られ方がなされてきた。)

英米ソと独日伊が1940年代に交戦した、という「結果から遡って評価」しようとすると、1930年代は「原爆投下に至る未曾有の総力戦に至る準備段階」であり、「総力戦」の定義に照らすと、一見戦争とは無関係に見える事柄もすべてが戦争への道だ、と言えてしまうかもしれない。第二次世界大戦のあと、戦争そのものだけでなく、1930年代に似た何かを見つけると、そこに「軍靴の足音」を聞きつける、という思考法が今も存続しているのは、そのせいだろう。

でも、戦争という「結果から遡る」歴史観には、さすがに色々と不都合がありそうに思う。

とりあえず1930年代の日本は、反共路線でプロレタリア芸術を弾圧する、ということが確かにあったけれど、上海を中継点にして外国人音楽家が続々と来日しているし、昭和初期のジャズとモダニズムが一段落して、日本回帰もしくはアジア主義もしくは近代の超克っぽい雰囲気になったのと、1941年の日米開戦との間に、必然や不可避のつながりがあったのかどうか、よくわからない。

日米が交戦してしまえば「敵性用語」としての英語の禁止等ということになったけれど、外国人音楽家が来なくなったのは、1937年の中国への侵略で、欧米と日本の中継地だった上海が変質したのが大きいように見える。(そして1940年の東京オリンピックと万博の開催権を返上するに至る。)大義名分をどのように構築するか、というイデオロギーより先に、人の移動が困難になった。「転向」はあっても「亡命」がありえない戦時下の閉塞は、いわゆる「翼賛総動員」というシステムの問題以上に、人を移動できなくしてしまったせいではないかと思います。

(「日本型」とのちに呼ばれることになる戦後の復興・急成長も、1970年代まで、モノが国外と往来しても、人・人材は国内に蓄積し続ける形だったのと無関係ではなさそうだ。教育も雇用も、こういう状態が前提で構築されていましたよね。)

一方、欧州と南北アメリカでは、1930年代になっても相変わらず頻繁に人が往来していたように見える。

大西洋を完全に封鎖することなど、国家の力をもってしても不可能である、というのが、欧州から北米への大量の亡命であるとか、ナチスの残党たちの南米への脱出であるとか、という出来事につながったんだろうなあと思います。

……山田治生さんが、プロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第2番のマドリードでの初演(1935年)を、ベルクのヴァイオリン協奏曲のバルセロナでの初演(1936年)と関連づけて書いていらっしゃって、そういえば、と思って少し調べると、ブリテンは当初アルバン・ベルクに師事したい意向があり、周囲の反対やベルクの死で実現しなかったけれど、遺作のヴァイオリン協奏曲の初演には駆けつけたらしい。(さらにこの曲は、バルセロナでの初演の直後に英国でもウェーベルンの指揮、BBC響の演奏で上演され、そのときの録音が残されている。)

で、ブリテンは、公式には戦争への嫌悪感から、(そしておそらく英国の性道徳をめぐる私的なあれこれもあって)1939年に北米に行く。

反対に北米や南米から欧州(主にパリ)に渡ったコープランドやヴィラ=ロボスやヒナステラのような人たちが帰国後にパン・アメリカンなナショナリズムに加担したことを考え合わせると、1930年代の大西洋の往来は、前の時代の国際協調・民族自決の延長ではあるけれども何かが違っていて、1940年代以後の「結果から遡る評価」ではうまくその何かを説明できなさそうな気がします。

たぶん、貴志康一のベルリンや大澤壽人のボストン、パリというのも、そういう「1930年代的」な移動の一例なのだと思う。