Stanley Sadie の仕事

ショパン 孤高の創造者 人・作品・イメージ

ショパン 孤高の創造者 人・作品・イメージ

ジル・サムスンのショパン論(『ショパン 孤高の創造者』の題で邦訳が出ている)を必要があって少し見て、改めて、いい本だと思ったけれど、これは、Oxford University Press の The Master Musicians というシリーズの一冊であるらしい。邦訳の奥付にも書いてあるが、シリーズの編者は Stanley Sadie となっている。

Sadie は、New Grove の第1版、第2版に関わって2005年に亡くなったようだが、New Grove のブランドで Musical Instruments や Opera の辞書も編纂しているし、音楽史のシリーズはあるし、作曲家の評伝シリーズにも関わって、「編著の嵐」を巻き起こすタイプの大物学者だったようですね。

ラノベやSFが若者の支持を得ているのだから、もはやホメロスやシェークスピアや源氏物語は要らない、と主張する文学者とか、マンガやアニメがあればミケランジェロやピカソは不要である、と豪語する美術史家がいるのかどうか。いそうな気もするし、いなさそうな、いても変わり者扱いされるだけのような気もして、私にはどうだかよくわからないのだけれど、少なくとも日本の音楽研究では、これだけ商品として売れて若者に支持されているものがあるのだから、商業音楽に取り組む俺たちが座の中心に居るべきだ、芸術音楽の連中は隅っこで小さくなっていろ!風の物言いが、過去10年くらいさかんにあった。

(なぜか日本の芸術音楽はよくて、西洋の芸術音楽だけがイジめに遭った。)

過去の経緯から、西洋の芸術音楽に憎悪や敵意を抱く人がいるのは既によく知られていることではあるが、学問の場で、限られたパイを取り合っているわけではない研究領域について、あたかも排他的な二者択一であるかのように、AかBか、どちらか選べ、と踏み絵を迫るかのような物言いが横行したのは異常事態だろう。

大英帝国時代のグローヴ卿の名を冠する音楽百科事典を、北米主導の環太平洋での成果(第二次世界大戦後のカリフォルニア的・西海岸的な文化風俗と無縁ではないであろうような)込みの民族音楽学や音楽人類学の知見でリニューアルしたり(New Grove 1st Edition)、そうした北米とのパートナーシップをヨーロッパ音楽に関する記述に還流させようとする「新しい音楽学」路線を取り込んだり(New Grove 2nd Edition)、というような事業は、「極東の島で誰がボスになるか」という村の権力争いと関係なく進めることができる。近代の学問という「機械」には、そのような性能が既に備わっている、ということだと思う。

New Grove は、第一版がサッチャーとレーガン、第二版がブレアとブッシュの時代の事典という感じがします。(その一方で、ドイツの MGG は、再統一後のコール首相時代に Ludwig Finscher のもとで第二版がスタートしてメルケル時代に完成した。)

Sanley Sadie は、ケンブリッジで Thurston Dart に学んだらしい。ダートはピノックやホグウッドを育てて今日のいわゆる HIP 路線の礎を築いたとされる学者で、ネヴィル・マリナーとは盟友、友人の間柄だったようだ。

4月にアカデミー室内管と来日したマリナー(大阪国際フェスティバル公演については日経大阪版に批評を書いた)が90歳を越える巨匠扱いされたのは、晩年の朝比奈隆が東京で神格化されたのと同じマスメディアの力学で、ホグウッドもブリュッヘンもアーノンクールも死んだ古楽・ピリオド演奏・HIP業界に、気がついてみれば一世代前のマリナーがまだいるじゃないか、という、日本のクラシック音楽業界の「翁」好きに過ぎないと思うけれど(そういえばピノックも同じ時期に東京にいたようですね)、そうなると、出し遅れの証文のように「マリナーとアカデミー管のヴィヴァルディのレコードは衝撃だった」という思い出話が語られて、彼らのアプローチは、サーストン・ダートが協力して学術的な裏付けがあったのです、と、今頃になってプロフィールに麗々しく書かれることになる。

(突如マリナーとダートの関係が語られ始めたのは、朝比奈隆の「神格化」に伴って、若き日の上海・満州時代の事跡が掘り起こされたのと似た現象かなあ、と思う。)

New Grove は、景気が良かった頃に第一版だけを講談社が日本語に訳して、関連する音楽史のシリーズは音楽之友社から出て、作曲家のモノグラフィは、ショパンの巻だけが春秋社からかなり遅れて出た。

私たちは、何かとお世話になった割には、過去30年、英国の音楽研究を随分いいかげんに扱ってきたようですね。

(Sadie については、今では英国で仕事をしている日本人研究者もいる時代だから、もっと具体的に色々なことを語れる人が他にいるんだろうと思いますが。)