第4章

男性による出産

ジョナサン・スターンの Audible Past (邦訳『聞こえくる過去』)の第4章は、次の章で fidelity という新しいテーマが導入されるのに先だって、ここまでの話を振り返る中継地点になっているようだ。

序論で「技術は文化だ」という構築主義を宣言した著者は、第1章で、電信・電話・蓄音機を「鼓膜的機械」と捉える。

http://tsiraisi.hatenablog.com/entry/20160101/p2

第2章は聴診器(医者の診療における問診から間接聴診への転換)の話http://tsiraisi.hatenablog.com/entry/20160103/p1、第3章は音響電信(信号を目で見るのではなく、耳で聞く)とヘッドセット小史http://tsiraisi.hatenablog.com/entry/20160216/p5になっているが、この2つの章は、「鼓膜的器械」に結実するような聴覚 hearing の再編の周囲に、「望遠 telephoto 的」とでも呼ぶしかなさそうな聴取 listening の「身体技法」(マルセル・モース)が生成していることを論証しようとする。

(「望遠的」は著者の言葉ではなく、著者自身は、これを audile techiniques と呼ぶ。audile techiniques の語は、「技術は文化だ」の構築主義を宣言するときの audiovisual litany とともに、Audible Past という書物の紹介で必ず引き合いに出される本書のトレードマークだが、私は、あまり良い名付けではないと思う。)

こうして全6章の書物のちょうど真ん中の折り返し地点にたどりつくわけだが、ここまでで、著者が何をやったかというと、従来、エジソンとグラハム・ベルによる電話と蓄音機の発明、として語られてきた19世紀末から20世紀初頭の出来事を、「構築主義」の立場で語り直す、ということだと思う。「系譜学的方法」は、そこに、「電話と蓄音機の発明」ではなく「音響再生産技術」の誕生を見いだす。天才的発明家の奇跡ではなく、複数の名もなき人々がコミットする「鼓膜的器械」の生成、「望遠的」聴取という身体技法の獲得が物語られたことになる。

リベラルで左翼的で、物語るという行為 performance による遂行的 performative な知の形が実践的 pragmatic に提示されているのだから、私たちが考える当世の北米的知性の典型のひとつなのかもしれない。

そうした事情がほぼ明らかになった折り返し地点の第4章で、著者は、発明の物語が「男性による出産」という奇妙なメタファーを身にまといがちであることを指摘する。これは、著者自身が、何をやろうとしているのか、自覚している証左だろう。「構築主義」は、もはや、「男性による出産」(「○○の誕生」とか、天才のオリジナリティとか、という語彙がここから派生する)という神話を必要とはしていない、ということだと思う。

(そういえば、「男性による出産」というメタファーは、処女懐胎というエヴァンゲリストたちの証言と一対であるようにも見えますね。)

可塑性 plasticity

さて、しかし、このいかにも「胸アツ」な新しい物語をこのまま語りきるのは難しい。

20世紀には、電話・蓄音機・ラジオがそのようなものとして存在してしまっているからだ。

著者がこの課題を切り抜けるやり方は、第2章で listening という難題をやり過ごしたときの態度に似ている。

電話・蓄音機・ラジオがそのようなものとして確立するのを、(「音響再生産技術」の)産業化の過程と位置づけるのだが、そのような産業化の過程については既に色々な論が出ているとして立ち入らず、単に、「多様な音響メディア」が、「相互に関連づけられて」おり、その関係や境界は、(今日私たちが電話・蓄音機・ラジオというように区別するほどには)明確ではなく、絶えず揺れ動いている、と指摘するに留まっている。

それはいいのだが、そのときに、「多様なメディア」の関係や境界が明確ではなく、絶えず揺れ動いている状態を形容する「可塑性 plasticity」の語の使い方に、トリックが仕込まれているように思う。

電話・蓄音機・ラジオの関係、境界が「可塑的である」という状態の観察・報告に先立って、このような「可塑性」は、音響再生産技術に固有の特性である、と言うのだが、それは論証されていないし、疑わしい放言だと思う。映画とテレビとラジオの関係や境界だって、この時期には同じくらい「可塑的」だろう。

「可塑性」の語で技術の産業化の物語を切り抜ける作戦は、成功したとまでは言えないように思う。