第5章

音響再生産の価値形態論

Audible Past といえば audiovisual litany と audile techniques を提唱した本だ、という風な紹介がさかんになされているようだし、目次で全体の構成をながめたときにも、忠実性 fidelity の話はあまり興味をそそられなかった。録音の「原音再生」というスローガンが単なるセールストークで、怪しげなのは自明に思えたからだ。

でも、どうやら第5章こそが本書のキモであるらしい。

  • 「オリジナル」が技術の外部にあって、音響再生産という技術が「コピー」を作成するのではなく、音響の再生産が可能であるという信頼が人工的に形成されてはじめて、何がオリジナルで何がコピーであるか、ということが確定するのだということ
  • しかし、音響再生産は、信頼形成に際してオリジナルへの忠実性 fidelity という価値を設定しているがゆえに、オリジナルとコピーを媒介する技術として理念的には限りなく透明であることが求められ、消滅することを目指すことになるのだということ

著者は、この2点を第5章の冒頭で語るわけだが、この論法は、資本論の価値形態論の応用に見える。「オリジナル」と「コピー」という関係を設定するのを金本位制に喩えているのは、ここでの議論がマルクス流の価値形態論だということを伝えるヒントなのだろう。

マルクスとエンゲルスの唯物史観は資本制に労働力の搾取がある、とする剰余価値説を採用して共産主義へ向けた永久革命を訴えたわけだが、どうやら、貨幣の交換価値に関する原理的な考察は、誤りかもしれない剰余価値説とは切り離し得る、というのが、ニューレフトの理論上の掛け金であるらしく(柄谷とかありましたよね)、ジョナサン・スターンも、その線で考えているように見える。

(議論のなかで、自説をベンヤミンの複製芸術論の再解釈と結びつけて、レイモンド・ウィリアムズにつなげたりしている。)

音響再生産という技術は、「オリジナル/コピー」という金本位制風の枠組を採用しなくても、再生産可能性への信頼があれば成立する、というわけで、「忠実性」概念は、金本位制を止めてしまった70年代以後のマネーの有りようのメタファーになっているようだ。(「それぞれの時代にそれぞれの忠実性があった」という言い方で、著者は「オリジナル/コピー」の金本位制よりも、「忠実性」ベースの信用形成のほうが再生産技術にとっては根源的なんじゃないか、という考えを示唆している。)

著者が筋金入りの左翼で、音響再生産という技術/文化は揚棄されるべきである、という風に未来に賭けているのであれば、ここまでの議論で listening に関する記述や各種技術の産業化に関する分析を「仮縫い」状態にして、やや性急に先へ話を進めようとしたのは、さもありなん、ということになりそうだが、どうなのだろう。