都市の規模

偶然が重なって、最近ハイドンのことばかり調べているが、ハンガリーのエステルハージ家で20、30人規模のシンフォニーやオペラをやっていたのが、ロンドンへ行ったら常時2管編成のオーケストラを自由に使えるし、桁違いのお金を稼げたので、シンフォニーはもういいや、というのが、ハイドンのロンドン体験ということだと思うのだが、

それだけでなく、ハイドンはロンドンで100人規模の合唱を使ったオラトリオを体験してしまったらしい。

大陸の宮廷や教会で、イタリア様式とフランス様式と北ドイツ様式の混合趣味で国際化、みたいなことをチマチマとやっていたが、ロンドンという都市は、話のスケールが文字通り桁違いだった。ウィーンに戻って「天地創造」と「四季」を書いたのは、そういうことであるらしい。

(この段階では、オペラもまだ数十人規模で上演されていたはずなので、オラトリオほど大きくない。)

モーツァルトが、スヴィーテン男爵に楽譜だけ見せてもらって、ややオタク的にシンフォニーにポリフォニーを入れたり、新しい教会音楽を夢想したのと違って、オラトリオの現場を体験してしまったわけですね。

おそらくベートーヴェンは、師匠がロンドンから戻って来たら人が変わってしまったのを間近に見て、思うところがあったに違いないけれど、それはまだ手が届かない宿題で、とりあえず室内楽や独奏ソナタやシンフォニーをコツコツ書いて、自分が「天地創造」や「四季」の頃のハイドンの年齢に近づいてようやく、ミサ・ソレムニスと第九にたどりついた。(ロンドンから招聘の手紙が来たのが第九を書くきっかけになったというのも、話のつじつまが合っている。)

その後19世紀にシンフォニーは肥大化したと言うけれど、漸進的・連続的に規模が大きくなったのではなく、都市としてのウィーンが壁の外へ拡張されて労働者を入れるマーラーの頃、突如一気にデカくなっていますよね。

結局、西欧の芸術音楽は都市文化であって、都市というインフラの変化にかなり大きく有りようが左右された、ということであるようだ。

少なくとも、オラトリオやカンタータ交響曲、あるいはパリのグラントペラのように、規模の大きさが特性であるようなジャンルは、観念や精神だけで大きくなったわけじゃない。

ポエジーとリリシズムでは到達できない領域、の顕著な例ですね。