「短い20世紀」の触り方

NHKが黒柳徹子のドラマをやっているのを視たら、昭和30年代の放送局をスタジオのセットや照明、生ドラマの演出、受像器の映り具合に至るまで再現しようとする情熱がすさまじく、「三丁目の夕日」が一段と精密になったような昭和の東京のなつかし描写と、満島の憑依系のお芝居と、あまちゃん風のサブカルテイストが相まって、何なんだこれは、と驚いた。

ご本人が今もレギュラー番組を持つ現役タレントだというだけではなく、団塊の皆様にとっては子供の頃に実際に体験した時代・風景でもあるわけだから、2016年の日本のテレヴィジョンは、昭和30年代=1950年を地続きの過去、というより、ほとんど永遠に不滅の時空として、記憶と呼ぶには鮮明・精細すぎる形で固定しようとしているんじゃないかと思ってしまった。

考えてみれば、放送=ラジオとテレビは、その誕生から「王座」を奪われた相対化までの歴史が、戦争の世紀と言われたりもする「短い20世紀」と重なるのですね。しかも、マクルーハンが「熱いメディア」と形容したラジオは、ひとつめの世界大戦のあとで生まれて、もうひとつの世界大戦に至る「総動員」の時代に最盛期を迎えるのだから、熱い戦争の時代のメディアなのかもしれないし、「冷たいメディア」と形容されたテレビは冷戦時代に登場している。

「ラジオ/総動員」の時代には、それぞれの陣営のリーダーがマイクの前で世界制覇の夢を語っているし、「テレビ/冷戦」の時代には、人類がロケットで月に降り立ったのだから地球人の宇宙への進出は目前だ、みたいな空想科学が様々に映像化された。ラジオは電波を地球の表面にあまねく散布 broadcast して、テレヴィジョンは、望遠鏡でも見ることができない「遠さ tele-」のヴィジョンを提示したわけだ。

でも、単一原理による世界制覇(もしくは世界統一)にしても、人類の宇宙進出にしても、ちょっとデカすぎる(そして未成熟で幼い感じがする)夢であって、少なくとも時期尚早であったと言わざるを得なさそうだし、ちょうど、原子力への過剰な期待の末に生まれたものとこれからどうやってつきあえばいいのか途方に暮れるように、夢の残骸から何を取り出して、何を廃棄するのか、清算事業にとりかかりつつあるのが21世紀で、夢の無批判な存続はあり得なさそうな感じがある。

電話と蓄音機とラジオを、「鼓膜的機械」の自らの介入が透明であるかのような「音響再生産」の技術として語り直すのは、既に19世紀から始まっていた動きを現在につなげる構図だし、オペラから映画を経てビデオゲームに至る「映像音響」の詩学もそうですね。(ラジオとテレビが「短い20世紀」の技術なのに対して、映画は「それ以前」に生まれているし、ビデオゲームは「それ以後」に発展している。)

「短い20世紀」の夢を「なかったこと」にはできないけれど、「それ以前」から「それ以後」につながる途中経過と位置づけることができれば、少なくとも、いつまでもそこに居座っている「永遠の現在」ではないものとして取り扱うことにはなる。

「前」と「後」への回路を開いて、取り出せるものをひとしきり取り出したら、あとはチェルノブイリのようにコンクリートで埋めて固めてしまうのか、それとも、いずれ何らかの方法で夢の炉心に入ることになるのか、そこは意見や立場が分かれそうだが、とりあえず、ひととおりの道を通す手がかりは見つかりつつあるようですね。

[以上、前のエントリーの後半が気に入らなかったので、別立てで書き直した。]