発振する鼓膜と発光する網膜:音響再生産と遠隔視はどのように信頼されているか?

[付記:当初の「発音」を「発振」「振動」に直した。視覚/網膜の「光」に対応させて、聴覚/鼓膜を考えるとしたら「振動」(共鳴)だろうというご指摘を早速取り入れる、ということで。

ただし、そういう風にアップデートすると、「発音」という言い方であれば暗黙にここに含めてしまえそうに思われた「声」については、別に考えないといけなくなるかもしれない。人はいつどのような経緯で「声」を「振動(の一種)」と見なすようになったのか。そしてそのような音声学の圏外では「声」がどのように捉えられていた(いる)のか? 視覚文化における「文字(視覚記号)」は、「声」と対応するような、取り扱いが特別であるような視覚像だと言えるのか言えないのか? 逆に、「声」は、「鳴り響く文字(聴覚記号)」と言ってしまっていいのかどうか?

(そういえば、エジソンの電話の公開実験では「声」が送受信されたとされているし、テレビジョンの公開実験では、「イロハのイ」などの「文字」が送受信されたらしいので、これらの機械がまやかしではなく既存の音響・視覚像の伝達装置であるという fidelity を周囲に納得させようとするときには、声と文字の送受信が最適であると考えられていたことになるが、「声は音響の一種であり、文字は視覚像の一種である」という認識は、これらの機械の開発に先行して成立していたのだろうか。それとも、これらの機械/技術の出現によって、そのような認識が確定したのだろうか?)

あと、「鼓膜的機械」とは別に、ブザーやシンセサイザーも自ら振動する機械であるなあ、ということにも思い至る。既存の「音」との間に「オリジナル/コピー」の関係を成立させることが難しい音響を生成する営みが、先進的・前衛的・未来的なものとして、「鼓膜的機械」による「音響再生産」と隣接しながら別の(ややニッチな)領域とカテゴライズされるのも、20世紀の風物詩でしたね。そして視覚文化においても、既存の「像」との間に「オリジナル/コピー」の関係を成立させることが難しい視覚像を生成する営みは、ありそうですね。]

テレビが見世物だったころ: 初期テレビジョンの考古学

テレビが見世物だったころ: 初期テレビジョンの考古学

ジョナサン・スターンの Audible Past とどこでどういう風に対応させることができるのか、と考えながらテレビジョン黎明期に関する記述を読んでいると、ブラウン管や液晶のモニター表示が放送の受信以外の用途に使われうる、というところを、「鼓膜的機械」としての電信・電話・蓄音機・ラジオという横断的な議論と対応づけられそうな気がしてきた。

でも、そうすると、まだ概念が足りない。

ひとつは、「鼓膜的機械」に相当する概念をテレビジョンの周囲に立てられるか、ということで、これは、カメラ・オブスキュラ以来の「瞳」の比喩の先に「網膜」を発見した、ということでいいかもしれない。近代は「鼓膜的機械」を編み出すのと平行して、「網膜的機械」を整備した。

ただし、そういう風に言おうとすると、映画のスクリーンは光を網膜のように透過するのではなく反射して観客に見せているし、ブラウン管や液晶は自ら発光する機構を備えている。「自ら発光する網膜」などというのはブキミである、ということになりそうだ。

でも、実はそこが肝心なのではないか?

「自ら発光する網膜」(ブラウン管)は、長らく「瞳」の比喩で語られてきたカメラと組み合わせて使われる。テレビジョンは、そういうシステムだ。

そしてジョナサン・スターンが言う「鼓膜的機械」も、2種類の「鼓膜」を組み合わせて使う。記録・受信機構に登場する「鼓膜」は、外界の振動を受け止めて揺れるので人間の耳の鼓膜に似ているけれど、情報を音響として出力するときの「鼓膜」は、自ら振動する。「鼓膜的機械」には、「自ら発光する網膜」と同じくらいブキミな、「自ら振動する鼓膜」が要る。

ジョナサン・スターンの Audible Past という書物は、「音響再生産」という「望遠的」聴取の技術への信頼が「オリジナル」と「コピー」の区別を事後的に作り出す、という主張を含んでいると読むことができる(と私は思う)。それは、マルクスの価値形態論風に言えば、認識論上の「命がけの飛躍」ではあるけれど、大胆な飛躍が可能なのは、「自ら振動する鼓膜」という、ブキミではあっても既存の人間像を応用して理解できる存在へと、承認・信頼の対象が具体化されていたからなのかもしれない。(交換価値の担い手として通貨が、貴金属といった既存の価値に紐付けて承認・信頼されていたように。)

同様に、「television = 遠隔視」の語で呼ばれている技術において、私たちが視覚像を「望遠的」に見ている、という認識は、なるほど、大胆な飛躍ではあるけれども、この新しい認識は、ブキミではあっても既存の人間像を応用して理解できそうな、「自ら発光する網膜」という存在を受け入れるかどうか、という風に承認と信頼の手続きが具体化していたのではないか。

(そしてもしかすると、「音響再生産」や「遠隔視」の技術がしばしば見世物的な欲望にさらされるのは、「自ら振動する鼓膜」や「自ら発光する網膜」を理解もしくは承認する認識上の飛躍を反芻する儀式なのかもしれない。)

聞こえくる過去

聞こえくる過去

[追記]

人間の五感は、必ずしも受け身の受容器ではないらしいことを近年の認知理論は主張しているように見えますが、「自らを音をだす耳」や「自ら光を発する目」を私たちは100年前に発明して、一世紀がかりでそのような機械に慣れてきた。この一世紀の経験は、私たちの認知と無関係なのかどうか。

そしていずれにしても、「自ら思考する機械=AI」は、そのように五感を自動化もしくは主体化するだけでは無理らしいわけですが、無理なものが目前に迫っているかのように錯覚してしまうSF的想像力は、「発光する網膜」や「発振する鼓膜」と、ブキミさの彼岸で、それ以上でも以下でもないものとして向き合うのが難しいことと、どこかで関連してはいまいか。

便利な機械たちに背を向けるのは、かえって不自然だとは思うけれど、20世紀半ば頃の理想のリビングのイメージ、つまり、巨大な「自ら発光する網膜」(テレビ)が中央に鎮座して、その傍らに、やはりこれ見よがしに大きく重たい「自ら振動する鼓膜」(ステレオ方式の一対のスピーカー)が控えているのは、やはり、何かの夢に浮かされたグロテスクな風景だったかもしれない。21世紀の私たちの周囲に「網膜」と「鼓膜」の数ははるかに増えているけれど、他の存在たちと共存できるサイズとデザインに落ち着いていますよね。