イチモツの周囲の言葉の配置

この島の市民社会は天井と床が抜けているのかもしれなくて、公人が公器を公然と駆使する行為はアンタッチャブルである、ということを市民社会は法制度として裏書きしてしまっているようにも見えるし、その反作用のような形で、それを私人の私闘として捕捉する制度を持たないアンタッチャブルなアウロトーが、それなしでは島の生活が成り立たない不可視のインフラとして存続しているようにも見える。

差別と天皇制は相互に支え合っている、というような一昔前の文化人類学風の構図ですね。

とはいえ、学習院に学んだからといって自分が華族・皇族だというわけではないのだし、外国文学者として、十字架と三色旗がせめぎあう欧州の国で revolution が反復されて、政治が回転し続ける渦中で書かれた散文小説を研究したからといって何がどうなるというわけでもないし、映画の国際諜報員を気取ったとしても、神戸新開地の芸者屋で育ったおじいさんに「にせ伯爵」と見破られる。

「逡巡」と「断言」がああいう文体を織り上げることになったのは、そういう環境においてなのだろうと思うけれど、でも、あの人は「総長」への道が具体的になりつつあった頃から、もう、そのような「希有な日本語の達成」なのかもしれない文体では書かなくなっていますよね。あれは、開戦の詔勅を発したかつての大元帥が敗戦後もこの島に統合の象徴として君臨し続けて、北半球で演じられていたとされる冷たい戦争がそのような東アジアの王権の延命を支える「ふしぎな時代」としての「昭和」の文体だと思う。

「平成=総長とその後」になると、とんでもない原節子とか、混血女優井上雪子とか、「グラントリノ」のアジアの女の子とか、女性の所作と生き方のことしか言っていないような気がします。

どこまでが映画の引用で、どこからが「にせ伯爵」のヴィタ・セクスアリスなのか、その境目を見極めようという気にもならないイチモツの話が延々と続いて、それが、地の文と会話の境目がない色々な女言葉のカタログみたいになっているのは、「元総長の平成」の集大成に見える。

そういうゲームが「玉を握りつぶされる」ところからはじまるのは、一方に「玉座」という言葉があって、他方でアウトローの人たちが「タマを取る」みたいなことをいかにもいいそうだ、というようなところから来たダジャレなのだと思いますが、

帝都に生まれ育って立身出世とか、北九州ストリート派とか、いかにも青臭いことを言いそうな「永遠に若い衆」のキンタマをギュッと握りつぶして「女子力」に期待する、というのは、最晩年の吉田秀和にもそういうところがあったようだけれど、今の老人の皆さんの凡庸な紋切り型なのかもしれないし、「老人にも萌えはある!」ということなのかもしれない。文芸誌という老人メディアには、そういうところが受けるんじゃないでしょうか。