21世紀という現代:資本の節度と情報の節度

市場経済を現行のしくみで回していくと、どうやら、資本は偏在して蓄積されていく性質を帯びてしまう。そして成長が頭打ちになることが予想されるので、再配分の回路を人工的に作っておいたほうがいいらしい。

というようなことがおおむね言えそうなのだとしたら、それは、ちょうど「エントロピー」ということが言われる情報の流れと反対の性質をもっていることになるのかもしれない、と、ふと思う。

つまり、情報は、現行の伝達方式で回していくと平均化していく性質を帯びており、その価値がゼロになる白々としたホワイトノイズのような状態になることが予想されるので、蓄積の回路を人工的に作っておいたほうがいいのかもしれない。そういう風に言えるのだとしたら、ちょうと、資本の運動と情報の流れは正反対ということになる。

情報と資本を組み合わせて、信用通貨による取引が下支えする情報社会、というようなものを構想するとしたら、正反対の性質を帯びた両者の組み合わせ方が問題になるのかもしれませんね。

資本の蓄積をエンジンにして情報の流通を加速しようとしたり、情報の流通によって資本の蓄積を加速しようとするのは、二重の意味でがめつく厚かましい態度なのかもしれないし、その逆の態度が「節度」と形容されることになるのかもしれない。

がめつさのイメージは比較的簡単に思い描くことができる一方、その逆の態度とは具体的にどのようなものなのか、貧乏性の私にはすぐには具体的に思い浮かばないのだけれど、たとえば、資本の豊かさに対して鷹揚であることと、情報が流れることに対して鷹揚であることは、直観的に、なるほど円満に両立しそうな気がする。

そしてそれぞれに対する鷹揚さが不十分であったり、情報の蓄積を(あたかも資本のそれに似た)豊かさであると誤認することが、情報社会におけるいわゆる「炎上」の何らかの要件になっているような気はしないでもない。

そのあたりを意識しながら経済学のモデルを組み立てようとすると、需要と供給が均衡する話と金融の話を抱き合わせにするインフレ/デフレの説明では済まなくて、生産サイドに技術革新という時間経過による推移を含む要因であるとか、人的資本というエージェントであるとか、を組み込むことになるようだ。

そういえば、ゼロ年代に凄腕プログラマさんが経済学のシミュレーションを請け負って、勉強してみるとアホな経済評論家が言っているのとは全然違う光景が見えてくる、というようなことを言っていたが、なるほどそうなのかもしれないなあと思う。少しずつ、「21世紀」が未来ではなく現在/現代に思えてくる。