「新しさ」の20世紀と「リバイバル」の20世紀

大学へ行く途中にこれを買って行き帰りの電車で読む。

黄昏の調べ: 現代音楽の行方

黄昏の調べ: 現代音楽の行方

なるほど、芸術として新しくあろうとした人々の営みをピックアップしていくと20世紀の音楽をこのように語ることができるし、そういう意味では、岡田暁生の「西洋音楽史」のよくできた続編、後日談になっているなあ、と思う。

(20世紀の音楽は、いわゆる「現代音楽」に限ったとしても、「新しさ」の希求だけをやったわけではないと思うし、きれいに書きすぎている印象はあるけれど……。)

そして授業ではこの本を読み始めた。

古楽の復活

古楽の復活

原題は THe Early Music Revival: a History で、それはつまり、古楽 Early Music の歴史というのは、古い音楽がどのような時代に生まれたか、というベタな歴史物語ではなくて、伝承の途絶えた音楽がいつどのように再び演奏されるようになったか、という「リバイバル」の音楽史なのだなあ、と改めて思う。

途絶えた伝承を、「復活」というキリスト教文化圏では特別な意味をもってしまいそうな旗印で再興する営みが連綿と行われたのは、新しくあろうとする一群の人々が自らを誇らしげに「前衛」とみなしたのと同じ20世紀なのだから、「古楽」の歴史は「新音楽」にぴったり併走する「もうひとつの20世紀音楽史」ということになる。

一方の、新しくあろうとする20世紀が上の本の著者の言うような数々の悲喜劇を巻き起こしたように、「復活」の20世紀も、authenticity の語をめぐる混乱に象徴される狂騒曲になっていく。

それは、19世紀西欧の芸術音楽が準備した歴史意識の2つの帰結であって、リニアな歴史というより、歴史意識に呪われた人々が織りなす2種類の物語という気がします。

(「新音楽」のスターたちは既にほとんど亡くなっていて、先頃のブーレーズの死はまさに「前衛の落日」という感じだったけれど、「古楽の復活」を音盤大手レーベルのジャンルに定着させた立役者たちもここ数年でほぼ死んでしまった。両者はぴったり同世代なんですよね。)

で、帰宅して1990年ザルツブルク音楽祭の「天地創造」の映像を眺めていたのだけれど、ムーティはこの頃から既にめちゃくちゃ立派な指揮者じゃないかと感心しながら、そういえば、ハイドンの「天地創造」やモーツァルトの「魔笛」やベートーヴェンの「第九」は、21世紀に至るまで伝承が途切れていないのだなあ、と、逆に、そっちのほうが不思議なことであるような気がしてきた。

歌っているのは懐かしいルチア・ポップだが、1990年ということは、私が観たのは、前の年に「壁」が崩れて、ソ連が解体したり、湾岸戦争が起きたりする直前に上演されたハイドンの映像なのでした。(そしてハリー・ハスケルの「リバイバル」本の原書が出たのは、そのわずか2年前の1988年。)

「クラシック音楽」は、そこから派生した「新しさ」の物語や「復活」の物語より長命かもしれませんね。