窓と扉

ヴァーチャル・ウィンドウ―アルベルティからマイクロソフトまで

ヴァーチャル・ウィンドウ―アルベルティからマイクロソフトまで

こういう感想だけを書くと理不尽なdisだと思われそうだが、「窓」というメタファーにつきあっていると、「窓だけがあって扉のない建物は出入りができないと思うのだけれどどうするのだろう」という気がしてくる。

virtual の語とつきあおうとすると、ちょうど reproduction がベンヤミンであるように、ベルグソンが鍵になるらしく、その先に最近流行りのドゥルーズの映画論があるらしいのだが、「virtual の歩き方」というガイドブックを読むようなつもりで、とりあえず深入りせずに本のあらすじだけを追いかけているうちに思い出したのは、シヴェルブシュが、ベルグソンを「フランスが普仏戦争の敗戦国だった時期の哲学」と位置づけていることだ。

敗戦国フランスの文化と哲学は、第二次世界大戦の敗戦国ニッポンの「なんとなくリベラルな反米」と、たぶん相性がいい(よかった)、というのは、「敗北の文化」(20世紀の戦争は、負けた側が次の時代に活躍しており、そこには一定のパターンがあるんじゃないか、という、いわば「負けるが勝ち」の寓話)の続編かもしれない。

ゴダールやドゥルーズのフランスも、第二次世界大戦の「戦勝国」と言えるのかどうか、あの国の動き方は不透明ですよねえ。

敗北の文化―敗戦トラウマ・回復・再生 (叢書ウニベルシタス)

敗北の文化―敗戦トラウマ・回復・再生 (叢書ウニベルシタス)

  • 作者: ヴォルフガングシヴェルブシュ,Wolfgang Schivelbusch,福本義憲,高本教之,白木和美
  • 出版社/メーカー: 法政大学出版局
  • 発売日: 2007/08
  • メディア: 単行本
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反米という病 なんとなく、リベラル

反米という病 なんとなく、リベラル

「窓」という比喩を手がかりにして、遠近法の矩形の枠(絵画)と、ガラス製のレンズと呼ばれる光の通路(カメラ・オブスキュラから写真を経て映画へ)と、ブラウン管への対抗意識を剥き出しにしていたと思われる映画館の巨大スクリーンと、自ら発光する各種モニターに映し出される単数であったり複数であったりする図形たち(Graphics)を比較するのは、ベルグソン/ドゥルーズ流の virtual を「窓」のひとつとして楽々と通り過ぎることができるところが面白いのかもしれない。

私は、「窓」を眺めるよりも physical に「扉」から出入りするほうが楽しいと思ってしまうし、「窓」のヘビーユーザーに「動きすぎてはいけない」などと言われる筋合いはないとムカつくわけだが(笑)、「扉」を消去したのか忘却したのか定かではない状態で眺められている「窓」の virtuality には、こういう風にアナロジーを処方するのが有効かもしれませんね。