放送と農業:たぶん電波は「網」ではない

Audible Past の第5章は、音響再生産技術に対する人々の信頼がどのように形成されたか、という、「社会性」を取り扱おうとしているようで、だからこそ導入部で価値形態論風の議論が呼び出されているのだと思うのだが、後半はちょっと食い足りない。

電話やラジオを事業者や技術者がしばしば「ネットワーク」として図解していることを指摘して、いかにも「社会性」が話題になりそうなのに、長々と続く記述は、「原音に忠実だと言うけれど、実際の録音現場では、録音に適した発声・発音・編成等が組織されており、いわば、あたかも録音結果が生音に忠実であるかのように思わせるための一種のヤラセが最初期からあった」とか、「再生産された音響は、ノイズがあるのに、あたかもないかのように取り扱われた」とか、というように、まるで社会運動家が不正を告発するかのような方向に進んでいる。(労働者のための正義を標榜するマルクス主義の縮小再生産としての消費者運動、著者は商品の不当表示に憤っているかのように見えてしまう。)

電話は、水道→ガス→電気という順序で19世紀から20世紀に整備された都市生活のインフラに準拠して電話線の「ネットワーク」を構築して運用されたが、ラジオは、電波塔から強力な電波を周囲に全方位的に発信する。だからこそ、ラジオ事業は、まるで農地に農薬を撒くかのように「散布 broadcast」の語で呼ばれているそうだ(=飯田さんのテレビ論で得た知識)。そして現在では、電話という一対一の通信も、地上の電話線ネットワークを介するのではなく、基地局を中継する無線電波を利用するようになっているのだから、電話やラジオにとって、「ネットワーク」という比喩は条件付きでしか当てはまらないとみた方がいいかもしれない。(電話は、誕生以来、常に「傍受/盗聴」のリスクが話題になり続けているし、携帯電話の緊急警報は、「一対一の双方向通信」という体裁をかなぐりすてて、当局の指令で一斉送信される。「一対一の双方向」は、電話という技術にとって必須ではない、ということだと思う。)

後付けの知識による批判ではあるけれど、ジョナサン・スターンが、ここで「ネットワーク(網)」という比喩を採用したのは、筋が悪かったような気がします。

水道・ガス・電話の「ネットワーク」は、都市の拡張と近代化という産業革命期の出来事で、電話のネットワークは、その最後に出てきた現象と位置づけることができるだろう。

一方、一点から全方位的に何かを「散布」するのは農業技術、都市の城壁の外で開発された技術・文化だと思う。そして実際に、電波の「散布=放送」は、従来の都市型メディアとは桁違いに、情報もしくはコミュニケーションの大衆化を実現した。

broadcast が擬態(あたかも〜であるかのような)を伴うのは、薬剤散布によって害虫が駆除された「とみなす」、というように、broadcast が「偶然を飼い慣らす」技術だからではないだろうか?

ポイントは2つ。第1に、ジョナサン・スターンは、少なくとも本書の段階で、都市の外部が視野に入っていないかもしれない、ということ、そして第2に、「偶然」や「統計」を組み入れるべきところで組み入れ損なっているのではないか、ということ。「ネットワーク」という比喩は、この2つの問題点を隠蔽する役割を果たしてしまっているように思います。