「口」的機械としての言語

話し言葉、自由な会話を言語の基礎とみなすのは、韻文と散文というような従来の言語観を食い破る発想だったのかもしれない。

ただし、視覚における写真や映画やテレビジョンを「網膜的」、聴覚における電話やラジオや蓄音機を「鼓膜的」と呼べるとして、20世紀の言語論的転回なるものが音声中心主義を批判的な起源として遡行的に見いだしてしまうのは、そこに「口」的機械としての言語とでも呼ぶしかない言語技術の介在がありはしまいか?

日本語で言えば、約物、鉤括弧「」とか。

「口」が勝手に言っています、という体裁でキーワードをカッコで括れば、自由かつ安全に何でも言えます、という風習は、「人文」の「論文」にも及んでいるわけだが。