ジュリアードとプリンストン

ニューヨーク生まれのチャールズ・ローゼンは、父が建築家で母がセミプロの役者だったらしい。一種の天才少年だったらしく、ジュリアードでローゼンタールやヨーゼフ・ホフマンに師事して、そのあとプリンストンでフランス文学を学んだそうだが、1940年代後半から1950年代のプリンストンというと、ヨーロッパからの亡命学者がたくさんいた頃ですよね。(アインシュタインもパノフスキーも、梁山泊みたいな高等研究所にいた。)

亡命学者の知的風土に連なる東海岸の知識人が書いた文章を、受け入れやすい、と私たちが思ってしまう現象は、どう考えればいいんでしょうね。

「戦後日本の人文」が「アメリカのなかのヨーロッパ」に見いだした希望とは何だったのか。クラシック音楽の場合は、小澤征爾がそうだったように、このあたり(バーンスタインを含めてニューヨークというよりボストンが拠点かな、という感じはありますが)にアクセスすることが、東アジア人の「音楽の国」への最短かつ最有力なパスポートだったのは間違いないと思いますが、他の分野ではどうだったのか。

そういう例は色々あるのでしょうが、「自明・当然であった」ということではなかっただろうと思うんですよね。朝比奈隆や吉田秀和のような大正生まれも1950年代に北米を訪れているけれど、この世代にとってのアメリカは、あくまでヨーロッパへ行くための中継地だったように見えます。