虚実とは?

近松門左衛門の浄瑠璃観とされる「虚実皮膜論」は、今では高校の古文の教材にも採用されているらしいのだが、穂積以貫が近松没後に「難波土産」に載せた伝聞、というところがややこしいし、むしろ、そんな穂積以貫の次男が近松半二だ、ということのほうが気になる。

これは近松のオリジナルな主張だと言えるのか、言えるとしたらどこがそうなのか、あるいは、たまたま近世のリアリズムを先取りしているように見えるところから後世の人々がクローズアップしただけなのか(=「歎異抄」という唯円の伝聞が、親鸞の思想として明治以後に有名になったのとちょっと似ている)。

芸能・演劇論に限らず、虚と実の対比、というのは、色々と系譜・来歴がありそうに思うのだけれど……。

二つ重ねて「虚々実々」になると「駆け引き」の文脈で使われて、辞典類では、

《「虚」は備えにすきがあり、「実」は備えが堅い意》相手の備えの堅いところを避け、すきをねらい、互いに計略や秘術の限りを尽くして戦うこと。虚実。「虚虚実実の駆け引き」

虚虚実実(キョキョジツジツ)とは - コトバンク

などと書いてあったりする。ガチに「虚々実々」をやると、昭和の大河ドラマ、中年俳優が演じる戦国大名たちの腹の探り合い(最後に笑うのは徳川家康)、という感じになり、平成大河の草刈正雄は、ブラフを連発する底が抜けて軽く明るい山賊の頭領なわけだが……。

近松が語ったとされる虚実皮膜も、役者が忠実に似せるべきか否か、とリアリズム風に話題が提示されはするけれど、最後のところは、

絵空事とて、その姿を描くにも、また木に刻むにも、正真の形を似するうちに、また大まかなるところあるが、結句人の愛する種とはなるなり。

とか、

趣向もこのごとく、本の事に似る内にまた大まかなるところあるが、結句芸になりて人の心の慰みとなる。

とか、というように、要は「人の愛する」こと、「芸になりて人の心の慰みとなる」ことが肝要であるという話に落ちる。

芸能論、エンターテインメントの心得であって、隙なく守りを固める「実」の構えに隙を残した「虚」が混ざるという意味での「虚々実々」から飛躍できていると言えるのかどうか。むしろ、近松は、竹本座に出入りする儒学者との「虚々実々」のやりとりに興じて、このようなレトリックを弄したとは言えまいか。

このような日本近世町人文化の「虚実」を、real vs fictive の対比と比較するとどうなるのか?