「それ自体を目的とする行為」というのは、要するに啓蒙的理念としての「自由」なわけだが、ひょっとすると、統計力学は、自由な振る舞いを観察する際のモデルのひとつになり得るかもしれない。
……というようなことを思いながら、この本を読み返している。
新装版 マックスウェルの悪魔―確率から物理学へ (ブルーバックス)
- 作者: 都筑卓司
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2002/09/20
- メディア: 新書
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エントロピーを減少させる方向に物事を動かす「悪魔」はいないはずなのだけれど、物性物理の様々な現象の「悪魔払い」は結構大変、ということになるようだ。
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そしておそらく「それ自体を目的とする行為」のほうは、既にほぼ無理であるということで大勢が決した「永久機関 perpetuum mobile」に似ているのかもしれず、そういえば、物理現象としての永久機関がほぼ無理となった19世紀に、音楽のヴィルトゥオーソたちが perpetuum mobile という趣向を流行らせた。
(パガニーニやヨハン・シュトラウスが有名だが、シューベルトの変ホ長調の即興曲を介して、ショパンの3つの即興曲や「猫のワルツ」と「子犬のワルツ」も perpetuum mobile に隣接する楽曲だと思う。)
ヴィルトゥオーソの演目としての perpetuum mobile は、当時の最新の超絶技巧を投入するのではなく、むしろ、18世紀末のロココ・ギャラント以来の技巧と様式・形式でチョコマカと音が動く曲芸である。おそらく、音楽における「永久機関 perpetuum mobile」は、ロココ・ギャラントな ludus を産業革命時代に生き延びさせようとする擬古・擬態の演出だと思う。
「それ自体を目的とする行為」としての「自由」、の場合はどうなのだろう?
政治的自由をめぐる議論が統計力学の最先端風にアップデートされつつあるように見えるご時世だが、ludology は「19世紀の perpetuum mobile」に似ているのか、似ていないのか?
(個人の好みとしては、院生時代にウェーバーの perpetuum mobile について論文を書いたくらいだし、私はこういうの好きですけどね。)