ライヴ批判のワナ

虚構・フィクションこそが速報性の批判に有効である、という風に論理を構成すると、生(LifeかつLive)をリアルであるかのように演出するメディアのカラクリがかえって隠蔽されてしまうのではないか。

(「リアル」とは「生(ナマ)」のことである、というのは、リアリズムとして特殊なのに、それが自明であるかのように通用する領域がたしかにある(あった)ようには思う。でも、そのような領域にフィクション論で立ち向かおうとすると、ほぼ確実に、ミイラ取りがミイラになる。速報を実現する算術・アルゴリズムは、虚実の代数論=記号学だけでは処理できない、ということのような気がします。)

蓮實重彦が、80年代から90年代の転換期に「魂の唯物論」という奇妙な言い回しでメディアのカラクリに対抗しようとして、表象文化論とか情報の学環とかを軌道に乗せる手助けをしたにもかかわらず、結局は三浦俊彦(「下半身の論理学」の人だよね)などに触発されて、フィクション論のノリで小説を書いてしまったのは、そういうことじゃないかと思う。

フランス現代思想(ポスト構造主義)を特異な文体で日本に紹介した評論家デビュー当時に遡って、やっぱり蓮實重彦は、フィクションを偏愛する人で、ヴァーチャリティとかメディアとか情報とかという議論にコミットする資質を十分には開花させ得なかった、という総括でどうか。

(蓮實重彦はケータイを使うのだろうか?)

「朝まで生テレビ」(生=ナマ!)の都知事のみみっちい公金流用疑惑もそうだが、大学や政治が、80年代風のフィクション論的感性を置き去りにして先に進もうとしているのが2016年の現在なのかなあ、と思う。

フィクション論の黄昏、という言葉が思い浮かぶ。