昭和30年の森正

森正はN響で正指揮者の称号を得るに至ったのに、何故か影が薄い。

天王寺商業学校音楽部でフルートを吹いていたが、1921年生まれなので大栗裕の3年後輩、天商バンドができて、またたくまに大阪で有名になった戦前の輝かしい時代を大栗裕と一緒に過ごしたことになる。卒業後に東京音楽学校に入る。戦後20代の若手フルート奏者としての活躍はなかなかのものだったようで、柴田南雄は、自伝で、三越劇場の室内楽演奏会での森正や岩淵龍太郎の演奏が「目から鱗の落ちる」当時としては画期的に端正なものだったと回想している。尾高尚忠にフルート協奏曲を委嘱して、1948年にできた室内交響曲版を初演したのも森正だったそうだ。

よくわからないのは、なぜ、そのあと指揮者に転向したのか、ということ。

1951年に尾高尚忠が亡くなって、弟子の林光が補作したフル編成オケ版のフルート協奏曲を尾高の追悼演奏会で披露したのは、吉田雅夫だったらしい。1950年というと、若手の千葉馨が出てきたタイミングで大栗裕がN響(当時はまだ日響)を辞めて大阪へ戻り、関響に入った時期である。はっきりしないのだが、戦中戦後の混乱が収まりつつあった1950年頃、日響/N響の周囲で何かがあったんじゃないかという気がする。

指揮者への転向は、尾高が亡くなった空白を埋める形になり、その時点での好判断ではあったようだ。

昭和30年頃の森正は、藤原歌劇団の指揮経験を買われてイタリア歌劇来日時の副指揮者に抜擢され、日本人の作品の上演に積極的だったので20世紀音楽研究所の音楽祭にも誘われた。芸術新潮に何度かエッセイを寄稿して、座談会に呼ばれている。

ところが、その当の座談会で、「日本のオーケストラは、どうして優秀な若手にもっと活躍の場を与えないのか」という話題が出る。N響は研修生の岩城や外山が指揮すると見違えるような演奏をするじゃないか、と言われてしまったりして、森正は、指揮者に転向してようやく足場が固まったところなのに、早くも、若手を抑圧するベテラン側であるかのような扱いなのである。

こうして森正は、尾高尚忠亡きあと、戦後世代の岩城や外山が一人前になるまでの「中継ぎ」扱いされてしまう。その先に、桐朋の秘蔵っ子で吉田秀和も気に入っていたであろう小澤征爾が華々しく登場するわけである。

1920年代生まれは、吉田秀和や柴田南雄や伊福部昭などの1910年代生まれ(戦後は上手に「ベテラン」のポジションを得る)と、1930年代生まれの戦後派(1960年代のスターたちを輩出する)の間に挟まれた谷間の世代になってしまっていたようだ。

1922年生まれの松下眞一が、数学者とかドイツ在住といった「癖球」を売りにするのは、「谷間の世代」の困難の現れでもあったのかもしれない。

(なんだかんだ言って、1910年代生まれと1930年代生まれは、戦後55年体制下の年功序列・終身雇用と上手く折り合いをつけた。バブルの1980年代で言えば、当時の日本企業によくある白髪頭の会長・財界の大物たちがほぼ1910年世代であり、社長重役として経営の陣頭指揮を執ったのが1930年世代だと思う。間に挟まれて、1920年代生まれは、割を食ってしまったようだ。戦争に駆り出されて男性が少ない不幸な世代でもあるわけだが……。)