耳元で囁く人

秀吉がどうして最後に大陸に打って出たのかと考えたら、彼が重用した千利休は堺の商人で、なおかつ茶の湯という禅宗文化を身につけていたのだから、近世の意味での国際情報に通じたブレインだったんだろう、ということに思い当たる。

堺の商人の茶の湯には、この時点での「世界システム」だったのかもしれない大航海時代の貿易と、それ以前からの仏教・仏僧の伝統としての大陸との交流の両方がバックボーンにありそうだ。国際派コンサルタントが為政者の傍らで囁いたんでしょうね。そういえば戦国大名はしばしば宗教家を傍らに置いていたようで、秀吉は当時最高のコンサルタントを雇っていた、ということなのかもしれない。

そして徳川が貿易と宗教を一元管理するしくみを継承強化して、僧侶と商人が内向きになったところで相対的に有利で自由なポジションを得たのが医者と学者かなあ、と思う。漢籍の素養を基礎にして洋学・西洋医学を咀嚼した人たちですね。坊主が政治に口を出す中世が終わったところで、ドクター(医者=学者)が政治家に処方箋を囁く時代になったわけだ。

なんでこういうことを急に言いだしたかというと、柴田南雄の父方の家系が尾張藩の御典医から帝国大学の学者に転じて、その先にこの人が出てきたのは、なるほどなあ、と思ったからです。

2016年の学者たちが自分でリスクを取るのではない「ささやき」(SNSだ)を得意とするのは、ニッポンのブレインたちの中世以来のお家芸を反復しているのかもしれない。

そういえば、70〜80年代の仕事をもとに「表層」を「見る」とされがちな蓮實重彦は、90年代以後になると、イーストウッドの映画で闇に響くコツコツという拍車の金属音や「コーマン!」という米兵の声に着目して、ヴィスコンティのイノセントを、登場人物たちが「小声で囁く」映画だと言うようになった。

そして一方、かつて国際政治学者を名乗っていた舛添氏は、「囁く」と形容するのが難しい感じに饒舌で、彼の声は、朝ナマの喧噪から頭一つ抜ける程度には通ったけれど、それじゃあ雄弁家かというと、舞台の中央での演説は、いまひとつ似合わない人だったのではなかろうか。

いずれにしても、はたして「都」という組織が何のためにあって、そのトップに何が求められているのか、私にはさっぱりわからないのですが。