ガリ勉と高等遊民

柴田南雄の1970年代の変質は、さしあたり作曲活動における路線変更、引用の織物として構成された「行く川の流れは絶えずして」や「追分節考」以後の一連のシアターピースがメルクマールになるわけだが、どうやらこれは、メタムジークが言われはじめた欧米の動向への追随というよりも、新しい音楽を学び、書き、語ることに忙しかった柴田南雄がレコード鑑賞やコンサート通いを本格的に再開して、作曲様式の考察から演奏様式の考察に視野を広げたのとリンクしているらしいことに気がついた。

1972年から10年間担当した朝日の演奏会評や様々な媒体に書いたレコード評や各種エッセイを丹念に拾っていかないと、その経緯や全貌を把握することは難しそうだが、さしあたり、1981年に音楽之友社から新シリーズ「音楽選書」の1冊目として刊行された『わたしの名曲レコード探訪』は、彼の路線変更の綱領的なテクスト群と見ることができそうだ。

国書刊行会から出た『柴田南雄著作集III』では配列がズタズタに切り裂かれてしまっているけれど(小沼さんはどうしてあんな乱暴な配列にしたのだろう?)、「I. 演奏における時代様式の変遷」「II. わたしの《交響曲体験》」「III. 《名演奏》とは何だろう」「IV. わたしの音楽ノート」は、この順序で読み進めることに意味があると思うし、IV.の最後の「バルトーク ピアノ協奏曲第一番、第二番」は、演奏論の形を借りて、バルトーク論(http://tsiraisi.hatenablog.com/entry/20110410/p1)以来の20年の前衛時代を総括している。これを『著作集』から除外したのは不見識だと思う。

レコード評論家としての吉田秀和の歩みは、著者自身が「批評草紙」などの仕事を全集収録時にバラバラにシャッフルしてミスティファイされているが(http://tsiraisi.hatenablog.com/entry/20110822/p1)、柴田南雄の場合は、彼自身が驚くほど明晰かつ率直にその都度発言していることを、後世の(遺族を含む)編集者が凡庸化している気配があり、ちょっとマズいんじゃないかと心配になる。

柴田南雄のレコード評を自伝や他の著作と照合しながら読み進めると、彼が文化資本豊かな環境で早熟に鑑賞体験を重ねた人なのがわかってくる。前衛の時代を経て、1970年代の新たな鑑賞体験をスプリングボードにしてようやく、そうした自身の体験を語ることが可能になっており、そのようなテクスト生成の回路が実に興味深いと私は思う。

これに比べると、吉田秀和の歩みは、ちょっと申し訳ないけれど、その都度の風向きや自らの立場にあわせて、かなり無理な「ガリ勉」をして帳尻を合わせる人だったと言わざるを得ないかもしれない。文学において作家が評論家より偉かったように、音楽においても、作曲家が評論家より雄弁で有名で輝いていた時代が、日本に確かにあったのだろうと思うのです。

柴田南雄という存在は、ちょうど彼が他の音楽家たちに対して行ったような徹底的な情報収集にもとづく「植物学的」方法論で、その全業績の書誌を作って、通時的・共時的に音楽様式を解析する思考システムとして語り直したほうがいいかもしれない。1991年の1月から12月まで、平凡社の月刊太陽(佐伯順子「美少年づくし」の連載が続いていたりする)の「モードのフィールドワーク」欄(←80年代っぽいコーナー名で、井上章一『美人論』や柄谷行人×岩井克人『終わりなき世界』の書評が出ていたりする)に75歳で音楽時評を執筆する、といった奇観は、それくらいの下準備をしないと論評不能だと思う。

(1991年の柴田南雄は、スノッブにテレビを押し入れにしまったりするのではなく、営業を開始したばかりのWOWOWに加入して、「数に溺れて」を見てナイマンの音楽を解析する人だったようです。)